近畿大学教育論業 第11巻第1号(1999・7)

アインシュタインの脳のミステリー


日本にはアインシュタインの3つの遺産(Regacies)がある。広島、長崎の原子爆弾のか
けら、そして近畿大学の私の研究室に保管されているアインシュタインの脳の一片(Piece)
である。
 なぜ、私がアインシュタインの脳の一片を持っているのか、それがこの物語のミステリー
な冒険ドラマの始まりである。
 1955年4月15日、アインシュタインは「私の地上での仕事は終わった」と言っている。死
について怖くありませんかという質問にアインシュタインは「宇宙のそばにいつもいるので
怖くありません」と答えた。アインシュタインは死の直前まで宇宙のパズルを解いていた。
 ハーバード・コンド著か『アインシュタイン物語』の原書169ページから171ページには次
の記述がある:「医者はアインシュタインが動脈瘤の破裂で死んだと言った。心臓の大動脈
に出来た水泡が破裂したのであった。長い間、医学者たちはアインシュタインの脳と彼の死
後について興味を持っていた。彼らは医学のために脳を提供してくれるように息子のハンス・
アルベルト・アインシュタイン(カリフォルニア大学流体力学教授)に求めた。ハンスは同
意した。
 彼らはアインシュタインの天才の手がかり、たとえば脳の大きさがどうなのか強い関心を
持っていた。しかし彼らは何も見い出せなかった。アインシュタインの脳の重さは普通だっ
た。研究者たちは彼の天才の手がかりを見つけることが出来なかった。生前、アインシュタ
インは彼の秘書へレン・デューカスに死んだら火葬するように言っていた。アインシュタイ
ンの希望は実現された。」
 この文節を読んで以来、私は脳の中の脳であるアインシュタインの脳、つまりアインシュ
タインの天才の秘密に深い関心を持つようになった。アインシュタイン生誕百年の前年1978
年にステ−ブン・レヴィ記者の『ニュージャージー・マンスリー』に掲載された論説「アイ
ンシュタインの脳の捜索」は深い印象を私に与えた。アインシュタインの遺体を解剖した
トーマス・ハーベイ博士がアインシュタインの脳を所有していることをレヴィの論説から知
った。しかし一個人がなぜアインシュタインの脳を所有しているのかという疑問も生じた。
一方でハーベイ博士に手紙を書いたがナシのつぶてであった。更にハ−ベイ博士の友人で
"アインシュタインとニュートン"の著者であるエール大学医学部皮膚病理学科のアーロン・
B・ラーナー教授を通してハ−ベイ博士との接触も試みた。ラーナー博士の1978年10月11日
付けのアインシュタインの脳に関する情報にはワクワクするものがあった。その手紙を紹介
する:「あなたへの
手紙の返事が遅れた理由は一つはカンザス州ウイチタのトーマス・ハーベイ博士と話したか
ったからです。彼は留守で昨夜まで連絡が取れませんでした。アインシュタインの脳に関す
る情報は限られています。ハーベイ博士はアインシュタインが死んでから7時間後に彼の脳
を摘出しました。脳の頚動脈にホルマリンが注入され組織は完全な方法で保存されました。
ハーベイ博士が彼の研究を完成させるには数年かかるでしょう。アインシュタインの脳に際
立ったものは何も見だせないと思っていました。アインシュタインが正しかったという可能
性があります。最近の詳しい研究は顕微鏡の研究によるものです。顕微鏡を含む研究では組
織はジアルデヒド(glutaraldehyde)の中に固定されています。この組織の保存はアインシ
ュタインの時代には利用出来ませんでした。代わりにホルマリンが用いられました。ホルマ
リンに固定された組織を電子顕微鏡で研究する可能性が残っていますが、研究は制限されて
います。一つの主要な発見は、私も非常に重要と思われますが、アインシュタインの体全体
が動脈硬化症であったにもかかわらず、脳には動脈硬化の兆候はほとんどなかったという事
実です。血液の供給によってアインシュタインの心はうまく働いたのでしょう。	
 
 それから13年余り、私のアインシュタインの脳への関心は永遠に深い霧の中に消えてしま
う運命にあった。一つは居場所のわからないハ−ベイ博士の消息である。あきらめの気持ち
はあったにちがいない。その後、私はこのミステリーナテーマを残し、アインシュタインの
生まれた国で、アインシュタインの研究をまとめるために、ドイツへと旅立ってしまった。
ドイツ・ミュンヘン大学では2年4ヶ月間のアインシュタインの研究の成果としてアインシュ
タインの
写真伝記集"Albert Einstein: Die kommentierte Bilddokumentation.1987"をドイツ
語でミュンヘンのハインツ・モーズ社から出版した。この本の英語版の出版が英国放送局
(BBCTV)のプロデューサー兼ディレクターのケビン・ハルとの出会いを実現する。1992年
12月、ケビンが来日し、私が主役を張る「アインシュタインズ・ブレイン」の製作が実現す
ることになる。アインシュタインの天才の秘密を知るには、アインシュタインの脳を所有し
ている行方不明のトーマス・ハーベイ博士を見つけるしかない。1993年春爛漫の4月〜5月に
かけて私はアインシュタインの脳を捜すためにアメリカ中を飛び回ったのである。アインシ
ュタイン、脳、E=MC2、原爆、日本はlinksしている。アインシュタインの脳に感心を持って
以来、私の記憶では15年か16年の歳月が経過していた。アインシュタインの脳との出会いは
私のこのテーマに関するクライマックスであった。瓶の中に浮かぶ物体を垣間見たとき、
これが相対性理論を発見したなごりなのか、私はその興奮した心の動揺を抑えることが出来
なかった。これは神が仕組まないと実現不可能であったと私は確信する。アインシュタイン
が死去した時、私はわずか8歳の少年だった。アインシュタインに実際に会えなかった運命
は仕方がないとしても、アインシュタインの脳をの遭遇は私の人生の中で最高の感動の瞬間
でもあった。更にBBC製作のこのドキュメンタリー映画はアインシュタインの脳を唯一映像
に残した貴重な記録となった。



アインシュタインの脳に遭遇するまでの歴史的過程:
1970年    ライフワークとしてアインシュタインの研究をスタートする。 1975年    翻訳書『アインシュタイン物語』(コンド−著)を出版。 アインシュタインの脳、天才の秘密に感心を持つ。 Steven Levyのアインシュタインの脳に関する論文に注目する。 1979年    アインシュタイン生誕百年、ヨーロッパにおけるアインシュタインゆかりの地を 巡礼する。翻訳書『相対性理論への招待』を出版する。 1985年〜1987年 ドイツ・ミュンヘン大学に留学にする。 1987年   アインシュタインの伝記写真集をドイツ語で出版する。 1988年   イタリア語版出版。 1989年   英語版出版。 1990年 フランス語版出版。 1991年 日本語版『アインシュタイン・アドベンチャー』出版。 1992年3月 アインシュタインの生誕地(ウルム市)で開催されたアインシュタイン・シンボ ジウムに招待される。 11月 英語版を読んだBBC TVのケビン・ハルより連絡があり、12月に近畿大学を 訪問する。 1993年4月・5月 アインシュタインの脳を捜すためにアメリカ中を飛び回る。 アインシュタインの脳の所有者トーマス・ハーベイ博士を見つける。アインシュ タインの脳のpieceを記念いただく。 1994年3月 『アインシュタイン博物館』出版。 1994年4月1日 まず、イギリスのBBC TVで映画「アインシュタインの脳」放映される。その 後、アムステルダム、山形、ミュンヘン、ウィーンの映画祭、ドイツ、オースト リア、スイス、オランダ、日本(NHK BS)で放映される。 1998年〜 シネマ・クロッキオ配給の下、劇場公開される。 1999年 3部作(trilogy)の3冊目の著者『アインシュタインの脳』〜天才の秘密〜出 版。アインシュタインの脳の映画化ビデオ化。 2000年〜 「アインシュタインの数学」という本の執筆を計画。