近畿大学教職教育部 教育論業 11巻第1

平成11725日発行 抜刷

 

 

天才と教育(I:アインシュタインの脳

Genius and Education : Einstein’s Brain

 

 

Abstract

 

 今世紀最大の超天才科学者アルベルト・アインシュタインが若い頃には落ちこぼれであり、

ギムナジウム時代は“のろまな奴”と呼ばれ、大学時代は“なまけものの犬”と言われ、通常

の学校・大学教育には馴染まない権威への反逆者であった。アインシュタインの強烈な個性は

既存の物理学の枠を超越し、空間と時間の概念に新しい光明を与えた。本論分は、巧妙を成し

遂げる迄のアインシュタインの知られざる側面と、脳の中の脳である行方不明のアインシュタ

インの脳を捜し当てた著者の報告と、最新の研究を含めアインシュタインの天才の秘密の幾つ

かの要因を述べる所にある。

 

 

 

幼年時代と少年時代の言語障害

 

アルベルト・アインシュタインは、1879314日、ドイツ南部ウルム市に生れた。ア

インシュタインの愛想の良さ、温和な所、賢明さ、楽天的な所は父親から、音楽への情熱、創

造的な性格は母親から受け継いだようだ。父へルマン・アインシュタインは実業家で教育熱心

であった。母パウリ−ネは文学や音楽に造詣が深く、アルベルトにバイオリンの手ほどきをす

るのに意欲的だった。13歳のアルベルトが音楽の遠心なる構造を発見した時、バイオリンは

終生偉大な物理学者の心の安らぎとなった。一方で幼少のアルベルトは非常に 持ちで、そ

の後も時々 を起こすので周囲のものはびっくりしたものである。アインシュタイン自身も

『自伝的ノート』の中で言っているが、喋り始めるのが遅かったために、両親は医者に相談し

たものである。9歳になっても、小学校の高学年になってもアルベルトの会話は流暢ではなかっ

た。ある質問がなされ、彼が答える場合、必ず心の中で文章を組み立てて、それから喋ったので

ある。アルベルトは2度喋っていると思われた。同級生はアルベルトのことを“のろまな奴

der Depperte)“と呼びクラスでも異端児扱いされた。ドイツの学校教育にも馴染めず、暗

記ものは全く駄目でとりわけ強制的な詰め込み勉強は駄目であった。先生のことを軍曹のよう

だと言い、先生に楯を着いたようで、先生からも「君がいるだけで僕の権威が損なわれる

のだ」と言われ退学を勧められている。このころからアルベルトは協調性が全くなく、独立独

歩の人生を歩む芽が育まれていたようである。父へルマンのミュンヘンでの事業が失敗したた

めに一家はイタリア・パヴィアに移住したが、アルベルトだけは学業を終了するためにミュン

ヘンの親戚の家に残ったが、しまいにはホームシックにかかってしまい。高等学校を中退し、

イタリアの家族と合流する。イタリアでは登山、美術館・博物館巡りに時間を過ごし延び延び

とした快適な生活を過ごしたようだ。アインシュタインはDyslexia「失言症:左大脳皮質のブ

ロードマン領域39の損傷」にかかったと言われる説があるが、この病気をうまく克服してし

まったようだ。一見おちこぼれのようにあるアインシュタインであるが、科学への目覚めは早

熟で既にこの分野でのアルベルトの奥深く秘められた才能は開花していたのである。

 

 

科学への初恋

 

5歳の時、病床にあったアルベルトに父は羅針盤を与えた。「目に見えない力によって羅針

はいつも同じ方向を指している!どうしてだろうか?物事の背後には奥秘められたものが

隠されているにちがいない。」科学への神秘性へと魅せられたアルベルトはこの感動的な出来

事を1949年に出版した彼の自叙伝の中でも回顧している。

 

 

マックス・タルメイとの出会い

 

叔父であるヤコブ・インシュタインがアルベルトに数学の古典であるユークリッドの『幾

何学原論』を贈る。ギムナジウム時代のアインシュタインは学校での退屈な授業よりもアイン

シュタイン家を時々訪問していた医学生マックス・タルメイより数学の手ほどきを受け飛躍的

に上達する。ピタゴラスの定理を自力で証明したり、微分積分学独学で習得した。タルメイ

自身「アルベルトは私を超えてしまった。」と証言している。

 

 

大学受験に失敗

 

高校の卒業証明書を持たなかったアインシュタインは入学試験にのぞまなければならじゃかった。

ドイツの大学は嫌い、しかもドイツ語圏になると必然的にスイス連邦工科大学受験となった。

数学と物理学ではよい点数を取ったが、他の科目は全く駄目で不合格となった。そこでアルベル

トは一年間アーラウ州立学校に通い、大学入学資格を習得する。

 

 

ペスタロッチの影響

 

アーラウ州立学校の校風は自由が保障され、延び延びと勉強出来る、いわゆるペスタロッチ

の教育精神が根づいており、アインシュタインは大きな影響を受けた。ペスタロッチの教育方

針は視覚教育に重点が置かれ、アインシュタインの特殊相対性理論に関する最初の思考実験に

ペスタロッチの視覚教育が重要な役割を及ぼした。アーラウ時代のアインシュタインは、夢見

る人(der Träumer)であった。

アインシュタインはアーラウ時代を次のように回想している:

「この学校は私に忘れられない印象を与えてくれた。自由な精神の校風と、いかなる権威にも

依存しない誠心誠意の教師陣である。真の民主主義とは空しい幻想ではない。アーラウはヨー

ロッパのオアシスであり、スイスの中の忘れられないアオシスであった。」

晩年、プリンストンからの手紙の中でもアインシュタインはアーラウでの美しい思い出を次の

ように述べている。:

「この学校の教育方針と規律、校風、教師の自由性は評価できます。人間は機械ではない。も

し自由がなければ人間の成長は損なわれるでしょう。」

アーラウ時代のアインシュタインは将来の夢について次のように書いている:

「もし、試験に合格したらチューリッヒの工科大学に行き、4年間そこで数学と物理学を学ぶ

んだ。僕は自然科学、特に理論物理学の教授になりたいと思っている。なぜならば僕は現実

的な思考には向いていない。どちらかというと抽象的な思考が好きなんだ。加えて、義務の

ない独自の研究活動に従事したい。」

そして余曲折はあったが、アインシュタインはアーラウ時代の夢を見事に実現してしまう。

物理学者レオ・シラードは「アインシュタインのように16歳で聡明になるような人は2度と

現れないでしょう。」と述べている。

 

 

大学時代は“なまけものの犬”

 

大学には入学にしたがとにかく真面目に講義には出席せず、実験室でボルツマン、ヘルムホ

ルツ、ヘルツ、マッハ、キルヒホッフの著作を読みあっさていた。教員からは嫌われ“なまけ

ものの犬“と言われ、試験の時は友人のマルセル・グロスマンのノートを借りて辛うじて進級

する。ある教授からは「君は物理学の才能がないから、法学か医学に専攻を変えた方がいいの

ではないか」と言われたが、アインシュタインは「才能がないから物理学にしがみついている

のです」と発言する。指導教授のウェーバを呼ぶのに「Herr Professor Weber(ウェーバ教

授)」と呼ばずに「Herr Weber(ウェーバさん)」と呼び、ウェーバの気分を害する。そんな

訳で、卒業後、他の同級生は助手として大学に残るが、アインシュタインにはポストは与えら

れなかった。権威主義者の教授たちは、アインシュタインの奥秘められた才能を全く理解でき

なかったし、理解しようともしなかった。

臨時の工業高校の教師をしたり、家庭教師をしたりして食いつなぐが、「数学と物理学の家

庭教師をやります」という広告をベルンの新聞にだすなど、あの偉大なアインシュタインから

は想像できない。しかし、事実新聞の広告記事は残っているのである。さらに当時第一級の実験

物理学者ライデン大学のハイケ・カーメルリング・オンネスに就職 施の手紙をopenの葉書の

書いているのである。しかも宛名の綴りも間違っているのである。もちろん返事なし。権威など

何のその、世間知らずの向こう見ずさには驚くが、このライフ・スタイルは終生変わることはな

かった。同級生マルセル・グロスマンの世話でベルンのスイス特許局にパンのために就職する。

 

 

“奇跡の年(annus mirabilis)”

 

1905年は、奇跡の年と言われ、アインシュタインは”Annalen der Physikに、量子論、相対

性理論、ブラウン運動、E=MC2に関する大論文を矢継ぎ早に発表する。理論物理学者マックス・

ボルン(1954年、量子力学の統計的研究によってノーベル賞受賞)は「アインシュタインの1905

年のどの論文を取ってもノーベル賞に値する」と言い切る。大学とは無関係の特許局という環境が

アインシュタインの能力を開花させたのである。しかし、物理学科出身で特許局に勤めた者がアイン

シュタインのような研究業績が残せるかというと、それは疑問である。やはりこの快挙を成し遂げ

るのは先にも後にもアインシュタインしかいない。そういえば、ニュートンが重力の理論や微分積

分を発見したウールソープの村、レオナルド・ダ・ヴィンチが数々の構想を育んだ簡素なヴィンチ

村もまた自然と調和した思索の場所であった。アインシュタインは自然と調和した自由な思索の場

ベルンをほどなく愛した。特許局には7年間勤めたが、この間、大学教授の資格(Habilitation

を取るためにベルン大学の私講師を務めるが、チューリッヒ大学から講義の様子を見に来たクライ

ナー教授の失望に対して、アインシュタインが「大学教授にならなくてもいいのです」と言ってる

あたりは、天の邪鬼といった精神構造を示している。その後は、チューリッヒ大学の枠外教授、プ

ラハのドイツ大学、一般相対性理論の完成、母校ETHへの凱旋、講義義務のないベルリン・科学ア

カデミーへ招聘と栄光の実験的証明(1919年)は、アインシュタインを世界的に有名にし、象牙の

塔から公の舞台に登場することとなった。1922年には日本を訪問している。

 

 

渡り鳥(Bird passenger

 

ナチの台頭と共に、アメリカに亡命し(アメリカの新聞は「ヒトラーからの贈り物」という

見出しを掲載する)、原子爆弾開発を促進する手紙をルーズベルト大統領に書く。しかし広島

と長崎のホロコーストを“Wenn ich gewuβt  hätte, daβ die Deutschen nicht an der

Atomwaffe arbeiten, hätte ich nichts für die Bombe getan.(ドイツが原始兵器を開発

してないということを知っていたならば、私は原子製造に関与しなかったでしょう)”と懺

悔している。アインシュタインはジョークが好きで、アメリカ市民権を取った時などは「私は

今日からヤンキーになった」と言っている。また儀式などには靴下を履かずに出席し、その奇

癖を示している。だぶだぶのセーターとカール・ヘアーはアインシュタインのシンボルマーク

だった。晩年は亡命先のプリンストンで統一場理論の研究に専念するが、その理論を完成させ

ることはなかった。またイスラエルの大統領就任を求められたり、核兵器全廃のためのラッセ

ル・アインシュタイン宣言に署名したり、最後の最後まで話題は尽きなかった。超天才には

必ずしも通常の学校教育や受験のための詰め込み勉強は馴染まない。アインシュタインは言

う:天才なんてとんでもない。ただ好奇心が強いのです。「もし人生をやり直せるとして・・・」

という質問に対して、アインシュタインは「灯台守になって物理学を考えたい。それは自由と

静けさを与えるからだ。」を答えた。自由は想像力を駆けり立てる、それはアインシュタインの

不変の哲学であった。

 

 

アインシュタインと(ラムダ)項

 

アインシュタインは「定常宇宙論」を支持し、アインシュタイン方程式に(ラムダ)項を

付け加えた。しかしエドヴィン・ハッブルの「拡張宇宙論」は項を削減した。アインシュタイ

ン自身も「生涯最大の誇り」と言った。しかし最近の研究で項は復活した。水星の起動修正、

光線の屈曲、重力レンズの証明と、アインシュタインの予測は正しい。21世紀には重力波も発

見されることは明らかである。我々は常にアインシュタインの恩恵に与かっているのである。

宇宙の未来研究に関して人間はアインシュタインの言う好奇心と想像力を更に飛躍・発展させな

ければならない。

 

 

アインシュタインの最後

 

死の3ヶ月前、アインシュタインは旧友のマックス・フォン・ラウエ(1914年、X線回折

の研究によってノーベル物理学賞受賞)に手紙を書いている。「死という神の摂理は私にとって何

かの解放のようなものであると告白しなければなりません。個人を一種の偶像崇拝の対象とする

ことには、私にはいつも苦痛だったのです。この長い人生のさまざまな煩いの中で、何か一つ学

んだことがあるとするならば、同時代に生きる大多数の人が考えることとは随分と隔たりのある

根源的な事象をを深く洞察し得たことでしょう。」

19553月、アインシュタインは旧友で最善の友ミケランジェロ・ベッソーの死について

「彼は私よりも少し前にこの奇妙な世界より旅立ってしまった」と述べている。アインシュタイ

ンの死亡原因について、アインシュタインの義理の娘マーゴットの証言、アインシュタインの財

産管理人で経済学者のオットー・ネイサンの証言、アインシュタインの最後を看取った看護婦と

のインタビュー、アインシュタインの旅立つ前の心情を紹介する。

1955418日、アルベルト・シュタインは、腹部の動脈瘤の破裂で死んだ。1949年の腹

部の開腹手術後、彼は死期が近いことを予期していたに違いない。というのは、1950年、アイ

ンシュタインは遺言で彼の孫バーナード・シーザに彼のバイオリンを、彼の原稿や論文をヘブラ

イ大学に寄贈することを公式に表明していたからである。1949年から1955年までアインシュタ

インの動脈瘤は安定していた。しかし1955412日火曜日は、彼の最後の研究所訪問となっ

た。彼の助手ブルリア・カウフマンは「あらゆることは心地良いですか」と訪ねた。アインシュタ

インは笑いながら「はい、あらゆることは心地良いのですが腹痛だけが良くありません」と答えた。

昼食に家に戻る前に彼らはいつものように2時間研究を行った。翌日アインシュタインは重症に

陥った。彼の動脈瘤が漏れ始め、主治医は彼に2錠の鎮痛剤を与えたが、彼の腹部と背中の痛みは

治まらなかった。当時の模様を外科医フランク・グレーンは「ある春の朝、私は当時世界で最も

著名な76歳の科学者の家に呼ばれた。検査の結果は彼が腹部に大動脈瘤を持っていることを明ら

かにした。外科手術は緊急を要した。私は彼の家で一日を過ごした。私は彼に、やがて動脈流は

破裂し、死に至ると告げた。」と述べている。アインシュタインは私に言った:“私は長生きをした。

私は非常に忙しく、人生を楽しんだ。なぜ困難な手術をするというのか。”外科手術を拒否した

アインシュタインは「私は望むときに旅立ちたい。人工的に生命を長らえるのは無意味である。

私の役割は終わった。今旅立ちの時だ。わたしはそれをエレガントに成し遂げたい。」と言った。

彼は週末にはプリンストン病院に移り、束の間の休息を得た。アインシュタインの義理の娘

マーゴットはマックス・ボルンの妻宛の手紙の中で次のように述べている:「私が、アルベルトと

同じ病院に入院していたのを知っていますか?二度、私は彼との面会を許され、数時間話をする

ことができました。

最初、私は彼がアルベルトであるか認識できませんでした。−彼の顔は苦痛と貧血で変わって

いました。しかし、彼の態度は同じでした。私の気分のいいことを彼は喜び冗談を言い、その尊厳

を失いませんでした。彼は自然現象のように死を待っていました。彼の生涯に恐れはなく、死に

直面しても彼は穏やかで謙虚でした。アインシュタインは感傷も後悔もなくこの世を去りました。」

またアインシュタインの財産管理オットー・ネイサンは彼との最後の会話が彼の心臓のこと、アメ

リカ国民の自由を損なう脅威、ドイツの再軍備に対する危険について出会ったと述べている。

アインシュタインを最後に看取ったのは夜勤看護婦のアルバータ・ロスゼルであった。彼女と

他の看護婦は195518日の午後1時頃ベッドで眠っているアインシュタインに付き添っていた。

他の看護婦が外れた後・ロスゼル婦人の前でアインシュタインは2回深呼吸をし亡くなった。

午前中に解剖が行われ、午後に遺体は荼毘に付され、灰はデーラウ川に蒔かれた。葬儀のとき

ネイサンはシラーの死の時に読まれたゲーテの詩を朗読した。腹部の大動脈瘤の破裂を誘発した

のは急性の胆 炎だった。トーマス・ハ−ベイ博士は解剖後の記者会見で胆襄炎と巨大な動脈瘤

について述べている。

その行動からして、アインシュタインはスーパーマンのような非常に元気の良い健康体である

ように思える。風貌からして頑丈な体(華奢には見えない)、自らを渡し鳥と言うように精力的に

各国を彷徨うジプシー学者、しかし驚くべきことにそのアインシュタインは慢性的な病気持ちだ

った。体は蝕まれても彼の強情な精神力は病気を乗り越え、次々と画期的な不朽の業績を打ち立

てていったのであった。失言症、ノイローゼ、偏平足、貧血、栄養失調、アレルギー、心臓病、

便秘症、度々の黄疸と腹痛、消化器系疾患の合併症、胆襄炎、胃潰炎、肝臓病と76年間の生涯の

39年間は慢性病との戦いだった。

アインシュタインの病気の理由について、ベルリン時代の医者ヤーノス・プレッシュは「彼

の精神と肉体の秩序のなさだ」と言う。「彼は起こされるまで眠っていたし、彼はベッドに行くこ

とを告げられるまで起きていた。彼は食物を与えられるまでハングリーのままであったし、スト

ップをかけられるまで食べ続けた。」物理学では秩序ある法則を作ったのに、日常生活ではルール

がなかった。医者から煙草を禁じられていても、隠れて吸っていたのである。

ここにアインシュタインの最後を看取った看護婦アルバータ・ロスゼル夫人の歴史的証言を

紹介する。この話は著者杉本が199351日ニュージャージー州、クランベリーの彼女

の家にてインタビューをした記録である。

 

―――アインシュタインは死を前に冷静でしたか。それとも興奮していましたか。アインシュ

タインに恐れはありましたか。

「意識はもうろうとしていました。」

―――アインシュタインは死ぬ前に衰弱していましたか。

「非常に衰弱していました。」

―――アインシュタインには何日付き添いましたか。

「日数は覚えていませんが、毎日午後11時から午前7時まで付き添っていました。」

―――どんな患者でしたか。

「普通の患者さんと同じでした。シーツを替えるときも、素直にベッドを立ち指示に従いました。」

―――どんな服装でしたか。

「病院のガウンを着ていました。」

―――アインシュタインとはどんなことを話しましたか。冗談を言いましたか。

「ノー」

―――アインシュタインはジョークが好きだったので、「あなたは美しい人ですね」とでも言った

のではないかと思っていたのですが(笑)。

―――アインシュタインは病院で何を食べましたか。

「食べられる状態ではありませんでした。」

―――アインシュタインは安らかに死にましたか。

「はい。静かに深呼吸を2回ほどした後でした。」(アインシュタインは1時頃呼吸困難に陥り

115分過ぎに死去した。即死だった。)

―――死んだ時、温もりはありましたか。

「ありました。」

―――死に顔はどうでしたか。眼は開いてましたか。

「覚えていません」

―――アインシュタインの最後の言葉は何だったと思いますか。

「全く分かりません。うわ言を言っていました。」(彼女はドイツ語を理解できなかった。)

 

これは、アインシュタインの最後の言葉は失われたと新聞の特ダネとなった。アインシュタインは

「さあ、新しい旅立ちか!」とでも言ったのか、いやアメリカで死ぬことの寂しい言葉で

あったのだろうか。アインシュタインが奇跡の年を過ごした美しい町スイスのベルンへの哀愁

の言葉であったのであろうか。

 

―――死後、アインシュタインの遺体はドクターの指示によってどのようにしましたか。

「口に綿を詰め、手を胸に持って行き、あごと足を縛りました。縛った両足の間に綿を入ました。そしてシーツで包みました。」

―――アインシュタインの遺体はその後どうなりましたか。

「知りません。」

―――アインシュタインを解剖したトーマス・ハーベイ博士を知っていますか。

「知りません。」

―――アインシュタインの脳を捜していますが、何か情報を持っていますか。どこに行けばアイン

シュタインの脳の情報を得られますか。

「プリンストン・メディカル・センターだと思います。」

 

静かに旅立ちたいというアインシュタインの遺言で遺体は7時間アイスボックスに入れられ、

安置されていた。当時、プリンストン・メディカル・センターの病理学長でアインシュタイン

の解剖を担当したトーマス・ハーベイ博士は、密かにアインシュタインの脳を摘出し隠してい

たのである。しかし『ニューヨーク・タイムズ』誌がこの特ダネをすっぱ抜いた。最終的には

アインシュタインの脳の医学的研究を行い、その成果を専門的な医学雑誌に発表すると言うこ

とでアインシュタインの家族とトーマス・ハーベイ博士の間で合意がなされた。そしてアイン

シュタインの脳をパブリシティーにすることは堅く禁じられた。この時、アインシュタインの

目も摘出され保存されたのである。しかし数年後アインシュタインの脳はトーマス・ハーベイ

博士と共に忽然と行方不明になってしまうのである。