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廃棄物の総合コンサルティング企業の潟nチオウが主宰する「銀の森倶楽部」の特別記念講演会が2月22日、東京・駿河台の中央大学記念講堂で開催され、宇井純・沖縄大学教授が「戦後の水質汚濁規制法令の展開」と題し、約2時間にわたって講演した。同教授は、戦後のみならず戦前の公害の例とそれに対する反対運動などをひもとき、これらの歴史的体験は、これからの地球環境問題において「本当に勝負する場は地方自治体であることを示唆している」と強調。そして、大きな変化は、実は少数の人の熱心な努力の結果から始まっているとして、約100人の聴衆の中の大学生ら若い層にそのような人間の生き方をつかみとってほしいと訴えた。
宇井純教授の講演概要は次の通り。
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●「公害」は明治のはじめから"公益に反する行為"として使われた
本論に入る前に、わが国において「公害」という言葉がいつ頃から使われたかという点について触れておくと、法律的には明治44年に、東洋の一流国として恥ずかしいという認識から、「工場法」が作られ、この13条に、工場の周辺に対して、衛生とか空気とか公益に害のある行為は禁止する。そういう行為を防止するために、監督官庁は工場の一部あるいは全部を止めることができるという条文が入った。ただ、公害という言葉そのものは明治の初めから公益に害がある行為という意味では使われていた。
第二次大戦で敗れ、日本は民主化の道を歩み始めるが、こと公害に関しては順調ではなかった。 本日のテーマである、戦後の水質汚濁規制法令の動きについて話すにあたっては、まず経済安定本部の中に各界を代表する学者が集められ、組織された「資源調査会」のことから入らなければならない。これは、アメリカが第二次大戦を始める前に学者たちを集めて"ペリー委員会"というのを作り、戦争に動員できる資源にどういうものが、どのくらいあるのかという検討をしてから臨戦したことに習って、戦後に作ったものだが、そこで日本にはどういう資源があって、どうやって食っていくかという政策を立てた。結論はきわめて悲観的で、資源としては若干の非鉄金属と若干の石炭があるのみで、比較的豊富にあるのは水くらいだという、いわば「資源小国」だという結論を出した。ただ、水は大事に使えば何回も使える。足尾鉱毒事件のように水が汚れて悲惨な事件が起こったのは事実だが、その水の恵みを受ける人々が貧しくて声を上げられなかった。時の政府がそれを見逃したのは明らかに間違いである、という反省の意を込めた結論を提出した。 さらに、水質汚濁防止法を作って工場排水を処理すること、もう一つは、国立水質科学研究所を設立して、排水処理の方法などを研究するという勧告を、時の吉田内閣に提出する。1948年(昭和23年)のことだが、吉田首相はどういうわけかこの勧告を握りつぶす。なぜこの勧告を握りつぶしたのかは吉田は語っていないが、今日想像するに、吉田の政治資金は炭鉱財閥の麻生家から提供されていた。炭鉱は当時もっとも基幹産業であると同時に、典型的な公害産業でもあった。石炭を洗った後の水をなにも処理しないで全部川へ垂れ流していた。そういう石炭鉱業の利害を代表して負担増になるような法律は通さなかったというのが真相ではなかったか。
そういう時期に、東京都の「工場公害防止条例」が出てくる。これは実は、明治44年に作られた工場法の中で、労働者の保護と同時に、公益に害する行為を防止する、いわば公害対策の部分があったが、戦後、工場法が廃止され、労働者の方に関しては労働基準法が制定されて、労働省の所管になり、公害の方は行き場がなくなってしまったために、当時の工場取締規則の中で公害に関係する部分を抜き出して整理し作ったのが都の公害防止条例で、1945年(昭和24年)にできている。調べてみたが、あまり議会でもまれていない。割合素直に通っている。実はこれがまた後で大きなきっかけになるが…。
こうしている間に、工業生産の回復とともに、水はどんどん汚れていく。各地で公害紛争が起こる。水産庁は初めの頃は統計をとっていたが、あまりにも多くなったため発表しなくなってしまった。そういう中で1958年(昭和33年)に「本州製紙江戸川工場廃水放流事件」というのが起きる。これは、一口で言うと、一番安いパルプを作るグランドパルプからセミケミカルパルプ(SCP)へ工程転換した。亜硫酸ソーダなどの薬剤で処理するが、この薬剤を回収しないで排出した。この結果、農民と漁民に被害が出て、漁民たちは東京都と千葉県に陳情、両自治体とも工場を許可した以上、責任もあるので善処方を勧告したが、工場側は表面はそれを聞いたふりをして、 夜間にこっそり排出したりして改めない。善処を約した工場長を翌日更迭したりしてさっぱり改善しない。その結果、怒った漁民が工場に乱入し、企業が呼んだ機動隊との間で乱闘となり、100人以上の負傷者を出し、国会でも問題にされた。これを契機に、政府はあわててそれまで棚上げにしていた法律を初めて国会に提出し、その年内に「水質保全法」と「工場排水等規制法」が制定された。 これをもって戦後最初の水質に関する公害対策法だと官僚はいうが、実は東京都が1949年(昭和24年)に公害防止条例を作っているから10年近く遅れているというのが真実だ。この点に注目してもらいたい。公害の規制は自治体から始まって、そして世論が厳しくなってから国が重い腰を上げているという経過がある。 しかし、この法律には実は抜け穴がいっぱいある。まず、法律の目的からしておかしい。公害を批判するのでなく、産業間の利害の調整が目的であると書いている。水域を限定し、業種を限定し、設備を限定するという三重に限定している。この限定した設備から出てくる排水に対して、その地域で許容できる濃度にして排水基準を決めるというものであることと、この排水基準に違反してもすぐに罰則がかかるわけではない。まず工程などを届ける。この届出を怠った場合には罰則の対象になる。次に、作った排水処理設備が排水基準をクリアできないという場合、都道府県知事はこれに対して改善勧告をすることができる。
そういう法律だったために1958年から70年までの12年間、一例も罰則が適用されたことがない。よく調べてみると、水質審議会の専門委員の中には加害者、すなわち排出側の業種の人間は入っているが、被害者の代表は入っていない。要は、加害者の都合を聞いて水質基準を決めるのだから企業が損する基準が決まるはずがない。その間、企業はどんどん垂れ流している。つまり、この法律は"汚し役"の法律だったと言える。こういう例で、唯一被害者の代表が水質基準を決めるメンバーに加わったのは渡良瀬川の下流の太田市の農民で、強硬な運動をして、古河鉱業の社長をメンバーから下ろして恩田正一という農業協同組合長を委員に送った事例だけだ。
こういう経過を見て思うことは、問題を役所に持ち込んでも、役人は「法律がないから取り締まれない。法律ができればなんとかできるんだが…」という。その後、こんどは法律ができてからまた行くと、こんどは「いや、水質基準を決める委員会が作られて、いま検討中である。これが決まれば…」と言う。そう言われると、そういうものかなと思ってしまう。どうも法律ができると、3年くらいはなにかやってくれるのではないかと世論はごまかされる。そこで、"法律1本、世論3年"という言葉を作った。
「大気汚染防止法」ができたのが1961年だった。これも、実は四日市のコンビナートの煙がちょうど基準を満たすような、コンビナートでC重油を最適な条件でたくと確か2000ppmになり、その2000ppmを超えたら規制値とするとしたものだから、石油コンビナートは全然規制にかからない。結局、四日市では大企業はひっかからず、零細企業がひっかかった。要するに、大企業が望むような基準を決めて、零細企業がひっかかるという構図の法律しか作らなかった。で、大気汚染防止法は64年に改正された。こんなことでは済まないぞという気がしていたが、67年に「公害対策基本法」が出た。その間、ちょうど3年だ。 ところが、その間に政府も財界も予想しなかったことが起こった。三島・沼津コンビナート計画に対する反対運動だ。石油化学コンビナート計画に対して、四日市の二の舞はかなわんと地域住民が拒否した。その後、各地で起こる公害反対の市民運動の最初の例といってよい。 その頃・1965年に私は東大の助手になったが、ちょうど小川一郎、加藤一郎など法学部のそうそうたる先生方が作った「公害研究会」がスタートし、助手の身分だったが、教授に代わって参加した。実は、その頃水俣病についてひそかに調べていた。調べれば調べるほどチッソの工場排水の問題と思っていたが、世の中では原因不明の病気ということになりつつあった。その方向に持っていったのはなんといっても東大医学部の力が大きく、チッソから金をもらってもみ消し研究をしたとしか言いようがなかった。ところが、途中でこれはやはりチッソが怪しいという当然の方向が出てきたために、その研究は途中でもみ消された。そういう動きを知っていたので、東大というのは恐ろしいところだと言わざるをえない。
この三島・沼津の住民たちの動きが政府などに「これからは公害対策が足かせになる」という認識をもたらすことになり、「公害対策基本法」につながっていく。それで、今言った公害研究会は新しい法律を作るときに官僚が作る"要綱"の前の段階の"枠組"を研究する研究会だと座長は宣言した。なるほど、東大法学部とはこういう時のためにあるんだなと分かった。余談だが、その時一緒になったのが淡路剛久(立教大学教授)さんだ。こうして、65年には法律家の会合に巻き込まれてしまった。
その直後(65年6月12日)に「新潟水俣病」の発生が伝えられ、愕然とした。それまで、水俣病の研究は、いわば趣味として、こっそりやってきた。なにしろ、相手は東大医学部で、公然とその先生ににらまれたらたかが大学院生、消されかねない。それはともかく、私が水俣病のことをもっと早く公表していたら、新潟水俣病は防げたか軽くできたかもしれないという慙愧の念に強く襲われた。そこで、腹をくくって方針を変えた。「これからは分かったことはすべて発表する」と。
新潟水俣病は阿賀野川の上流にある昭和電工鹿瀬工場からの排水によるものということが明らかになった。そして、新潟水俣病裁判では私も弁護団に加わり、水俣の失敗を繰り返さないことに心を砕いた。法廷ではとくに反対尋問に力を入れた。相手側が出してくる証人に尋問してひっくり返すことに注力した。
こうして、60年代後半から70年になると、あちこちに公害が起き、裁判が行われ騒然となった。そのとどめは同年5月21日新宿・牛込柳町に発生した自動車の排気ガスによる鉛中毒問題だった。さらに光化学スモッグが同年7月18日に東京の杉並、練馬、三多摩などで相次いで起こった。これで公害に関するマスコミの報道の量が爆発的に増えた。前の年の10倍にも上った。なぜか? 水俣病は悲惨だという一定の認識はあるが、所詮九州の、それも片田舎の出来事、自分たちとは直接関係ないという感覚に対し、この問題は新聞社のデスクやテレビ局のディレクターが住んでいる所で起こったために、きわめて身近に起こった問題として臨場感があり、いつ自分の子供がやられるかもしれないということになる。
その結果、公害国会において「水質ニ法」が廃止され、新たに「水質汚濁防止法」ができた。ただ、その過程で一つ問題が起こった。というのは、都の公害防止条例が水質ニ法の排水基準よりも厳しいものを決めるということになり、公害研究所長に早稲田大学教授だった戒能通孝先生を据えた。まさに、今の石原都知事の銀行への外形標準課税と同様に騒然となった。経団連は、「国が排水基準で認めている既得権だ。東京都はその既得権を侵害することになり、財産権の侵害として憲法違反で訴える」と言って都をおどした。
しかし、戒能先生は平然と「やるならやれ。裁判はオレがやる。それに対して誰が出てくるか、そいつの顔が見たい」と言い放った。実は、戒能先生は主尋問、反対尋問の権威であり、大体の弁護士は先生の書かれた本で勉強して司法試験を通っていた。結局、経団連側に立つ弁護士は現れなかった。その結果、ついに公害国会では水質汚濁防止法を作った時、地方条例で水質汚濁防止法が全国一律に決めるよりも厳しいものをそれぞれの地方自治体が作って良いという、いわゆる上乗せ条項が認められた。それから、国が規制しないものを地方自治体で決めるという横出し条項も認めた。72、73年には上乗せ条項を決めた地方自治体が現れた。東京都を初め、川崎重工業地帯のある神奈川県、霞ヶ浦を抱えている茨城県、琵琶湖がある滋賀県などが多少厳しい条例を決めた。これらにより、工場排水の垂れ流しはできないという思想が全国的に普及した。73年のことだった。
一方、74年から工業用水の需要が減り始めた。工場などから外に出す汚れた水の量は極端に減った。その結果、汚水の中心源は工場排水から家庭排水に変わっていった。
断言は難しいが、おそらくこれからも水の需要はそう大きくは増えないだろう。しかし、バブルも含めてあちこちでできたダムや堰が不要不急の存在になったのは、こういう工業用水の減少と水道水の頭打ちのためだ。こういう変化は、実は地方条例のお蔭だ。建設省は、この水量の変化は下水道が普及したためだと言っているが、これは違う。たとえば札幌の豊平川のppmが下がって、サケが上がってくるようになったなんて言ってるが、事実はそうではない。工場排水の規制が寄与したためだ。ここでの教訓は「行政のデータはまず疑え」ということだ。いずれにしても、この時期に浮き彫りになったことは、効果の少ない下水道をしゃにむに作った結果が今日の"世界一の借金王"になったということと、役に立たない公共投資をしてきたということだ。
この1世紀を振り返って見ると、節目節目で大きな事件があったことが分かる。そういう中で、特徴的なことは、たとえ一握りの人でも頑張る人がいれば何かが起こる。いずれ流れが変わる。その気になればできる−という教訓だ。先ほども触れたが、三島・沼津コンビナート計画の反対運動を展開した高校の理科の先生たち、四日市コンビナート公害事件を告発した田尻宗昭さん、水俣病の運動の川本輝夫という一人の漁師、さらには高知パルプ生コン事件の山崎圭次さんらの個人の力が大きなインパクトを与えたことを目の当たりにしてきた。
最後に、とくに若い人たちへ申し上げたいことは、自分が大事だと思ったことは10年頑張ればメシを食える。20年やれば世界の第一線に立てるということだ。それにはこの小さな島国でやるのではなく、広い世界でやることだ。
教訓といえば、早く手を打てば防げたのに、あるいはわざわざ手を打たなかったものに「水俣病」と「イタイイタイ病」を上げざるを得ない。ともに2度起こしてしまった。この失敗を、今工業化を進めているアジアの諸国に伝えることが私たちの課題になろう。言葉の上手下手でなく、本気になれば伝えるものは伝わるものだ。 1948年の段階でもっと気がついてちゃんとした法律を作っていたら、あるいは規制の枠組を作っていたらという後悔の方が先に立つ。ほんの一握りの政治家の私利私欲が日本をこんなに汚してしまった。しかし、今や少しでも修復した形で子孫に引き継ぐことが我々の義務だと痛感している。
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休憩の後、質疑応答に移り、会場から幅広い質問が出されたが、その中で宇井教授は、今、ヨーロッパでは酸性雨による森林の荒廃を目の当たりにして"環境"から"公害"への認識が強まっていることや日本国民の政治的熟成度が足らないとか、「環境学」についての見解など示唆に富んだ回答をした。
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