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 【特別寄稿】
川のことは誰がどう決めるの?
―"河川協議"の謎―

清野聡子
(東京大学大学院総合文化研究科助手)




河川法の改正されたけど

 河川管理の研究をしていると、「河川法が1997年に改正され環境保全と市民参加が謳われた・・・」という話は良く聞くのだが、では、具体的には何がどう変わったのか?については、案外と行政に預けたままである。市民や研究者から提案された意見が、どのような理由により採否を行政が決定しているのかも、実は、政治的理由だの、行政の不作為だの、費用の問題だの、という漠然としたくくられかたをしてしまいがちである。

 研究者の場合には、専門家会議や学会提言などの機会があり、そこでの具体的な提案の機会もある。私自身の経験では、研究論文の採否の理由に非常にナイーブな研究者集団も、同じ研究結果の発露であるはずのこの手の提案の採否に関しては、その理由の探究が手薄であるように思われる。その理由としては、研究者は専門家としての守備範囲を自己規定するが、対外的に専門外と思われることは発言しない行動様式ももつ。それは職業的意識としてもっともではあるが、専門家を集めるだけでは現場の問題が解決しない理由のひとつとして、専門領域を越境しない、ことも原因のひとつなのではなかろうか。

 河川法改正後に河川環境の研究が多くなされる割には、個々の河川の現地での問題が野積みのままである。私は、理科系で育ってきたので、法学を学んだことがないので、法律が変われば自動的に社会が呼応するのだと安易に考えていた。よく考えれば、そんなはずはなく、法律とは事務的なものでもあり、理念の宣言でもあったのである。法律改正に伴い、諸手続きなるものが実効的に変わっていかなければ、また、その仕事をする人たちの発想や指向性、思考回路が実質的に変わって、やっと現場が変わるのであった。

 河川環境計画にかかわる委員会の運営は、専門家の提言を行政が受ける形式である。生物専門家の場合には意見を生物学的見地から申し述べる、のであるが、手続き、管理手法、構造物の設計は行政とその命をうけた技術者が作り上げるのである。生物専門家は意見はいうが、そのプロセスに巻き込まれたり、介入したりすることはほとんどない。それが当然のことと思われていることに、問題はありはしないだろうか?

 自分の大分県八坂川の調査地が、大規模圃場整備事業という農地整備と治水目的の河川改修の2系統の事業がお互いを縛りあうように、計画変更不可能な領域にもつれこんでいった生々しい経緯を体験した直後だった。


本明川河口諫早干潟の河川協議

 こんなことを漠然と考えていた時である。2001年1月に有明海でノリ養殖が色落ち被害を受け、それに伴い、農林水産省に通称「ノリ第三者委員会」という委員会が結成され、現在も2ヵ年にわたり続いている。この委員会は、閉鎖性が強いとみられている農林水産省の委員会にあって、ほぼ完全に近い公開が行われた点で、画期的なものであった。なんだ、農水省だってがんばればできるじゃないか、とこの種の問題に関心のある研究者や市民は期待をしたものである。

 委員会の議事については、同じ会場の隣接するテレビで生中継される仕組みであった。私は2001年9月20日の委員会議事の傍聴に行った。4時間近い議事の大半が資料説明で、委員間での議論の時間が少なかった。これは、日本の専門委員会の"文化"なのか、委員に議論をさせないための仕組みなのかはわからないが、いずれにしても、傍聴に詰め掛けた研究者、市民団体、ノリ業界関係などにげんなりした空気が流れたことは確かである。(ちなみに最近の気の効いた事務局による専門委員会は、事前に資料を委員に送付し、議論の時間を充分とる配慮をしているので、日本の委員会文化は望ましい方向に改善されていると思う。)

 ところが、この日の議論で私の興味分野に矢を射込むような発言があった。海岸工学専門家のI委員の議論に対し、農業工学専門家であるT委員から、「本明川の河川協議が変えられると思って言っているのか」とぴしゃりと封じるような語気での反論があった。それに対し、I委員が一瞬ひるみ、かつテレビ画面の向こうの会場にもしばしの沈黙があった。

このT委員の発言に、私は非常に興味をもったのである。発言者の語調は、海関係者が大半のこの委員会にあって、諫早干拓事業や農地整備について明確に主張する立場であったからと思われるが、しかし、かくも自信をもって「変えられない」と主張するような手続きとは何なのか調べてみなくてはいけない。

"諫早干潟"は地形的には深い湾の奥にある本明川河口干潟である。諫早干拓は、洪水調節という防災機能を発揮するということになっている事業であるが、河口に調整池を造り汽水域の大幅な消滅を招く、海と川を分断する構造物と見ることができる。かくして、諫早干拓堤防は、巨大な"河口堰"とみなされている。

干拓事業の際、河口部の農村や農地の防災を謳った事業をする干拓事業者は、本明川の「河川管理者に協議をした」のだ。諫早干拓事業に注目する市民や研究者は、本明川治水計画にも着目してきたようだが、実際に、どのような協議内容になっているのか、あるいは、巷で議論されているように干拓事業の中止ということであれば、実は、農地だけでなく河川管理者も大きく影響を受けるはずなのだ。矢面に立った事業者の言動は注目されやすいが、背後での調整は舞台裏であるから世にその世界が見えることはほとんどない。外交交渉のようなものであろうか。

この「河川協議」なるものは、本当に未来永劫変えられないものなのだろうか。諫早の場合には河川法改正以前から交渉をしていただろうから、河川法側の改正も過去にさかのぼっては適用できない、ということなのか。あるいは、協議内容を変えることができれば、未来の状況は変わるのだろうか。


農地と河川の切れ難い関係

 協議、というのは、複数の関係者が話し合って決めるべきものである。それは、決めたことを、中途半端な理由で、しばしば覆すことはありえないだろう。一方、農地と河川の関係のように、利害対立するように見えるセクターが一度お互いの了解のもとに決定したことは、変更が困難という観察もしてきた。この二者の関係性は未だに解明すべき点が多く残っているし、計画や事業の固有性も強いとはいえ、諫早、川辺川、吉野川、そして私の調査地、ほとんどがこの構図なのだった。
 両者が背中合わせになってあらゆる敵を打ち砕こうとするがごとくに、"農地と河川の一体化した事業"は議論が厄介である。この二者の関係性を分離して議論しない限りは、全か無かの状況に陥りがちである。

 この構図が如何に生まれるのかだが、頼み頼まれ、拒絶も可能、という関係性のなかでは、一方が強くなりそうで、実は相互依存もあるのではないか。あるいは、利害が対立しそうな別系統のセクターが同じ空間で共存するためには、他のセクターが決定したことは、審議をするようでほとんど素通しする、などの現象。これは、学会の分野や大学の講座、漁業共同組合全体と各集落などの関係にも見出される。

 普段利害対立している相手、この場合、協議相手が困ったときに、仮に、背後から困った状況を助長するような行為をしたとしよう。すると、渦中にあった際に追い討ちをかけるような行為をしたいかなる者に対しても、不満が生じる心理状態になる可能性は充分大きい。一方、利害関係が基本的には対立するにもかかわらず助け舟を出してもらった場合には、通常時以上の感謝の念を持つだろう。これが「敵に塩を送る」本質なのかもしれない。

 いずれにしても、治水利水に関しては、河川事業者と農業関係は不可分の関係にある。農業用水の取水、河川改修時の農地や集落の移転など。これらは、本来的に機能していれば、お互いの持分を調整しあいながら河川と共存、享受する、という合目的な仕組みであって、いわゆる、結託、とは言わない。しかし、計画変更のときに一枚板に融合してしまうのは、結託と表現されても仕方がないかもしれない。これも、行政の仕事の目的なり、組織内での評価基準や行動規範が、過去の計画をがんばりとおして仕上げること、でなくなった場合には状況が変わるのかもしれない。

 さて、河川法が97年に改正された後に、河川協議、という重要な行政的部分、河川管理の仕事の重要な部分が、具体的にはどのように変わったのだろうか。これは今後の河川環境計画にとっては本質的な議論なはずである。上述のように行政の仕事内容に興味のある研究者はさほど多くないが、今後、自分のフィールドの未来や、提案した計画の成就を考えるならば、河川協議というプロセスに注目することは必要であろう。河川管理学的視点からしても、法の理念という抽象的な存在を、具体的な現場に落とし込んでいくダイナミックかつ緻密な部分は興味深い。

 すなわち、従来、河川協議は治水上の側面からのみ考えられてきたはずである。しかし、「環境や市民参加をとりいれた協議」とは、具体的にどのような行為を指すのであろうか。当然、そこには、環境に関連する専門家や市民が、そして、市民参加ということであれば、河川協議をかける主体の事業者もまた市民に意見を求めることにもなるのではなかろうか。


河川協議の具体

 河道内の構造物設置や、排水口工事など堤体を改変する場合に、河川管理者が行う「河川協議」は、改正前の河川法のもとでは、治水上の観点からのみ審査されてきた。例えば、橋脚の設置により、洪水時に流木などが橋にひっかかると、そこが臨時の固定堰のようになってしまう。その結果、洪水流が流れにくくなり、局所的に水位が上がる。その結果、堤防が河川流に洗われて崩れてしまう危険性が増す。そういった場合には、河川管理者は橋は他人の事業でありながら、その存在のせいで洪水を誘発され、その結果、自分たちの責任(管理瑕疵)という深刻な事態に陥ることになるので、架橋の許可は慎重になるのは当然である。橋の位置や形状の変更を求めることもありえる。

 その場合の、審査基準は国土交通省河川局による「河川管理施設等構造令」(以下、構造令、と略)によって治水上の観点から"水理的検討"を行えるように示されている。ここで注目すべきは、この構造令は推理的検討に基づいて、万一裁判になった場合でも、この基準を守った協議結果や構造であれば責任をとることができない、という社会的契約になっている点である。これは契約書でもあり、かつ、水理学に依拠した河川技術としては経典である。過去の水理学的な検討の歴史と量と、基本的にはニュートン力学であり定量化と予測が可能という観点からすると、完成度の高い技術体系であることは確かである。

 河川環境保全の手法が、これと同等の定量性と一般性を持つことは可能だろうか?そもそも、生態系や生物、景観、社会の要素もまた、水の物理と同様の体系にすべきなのだろうか。


吉野川の河川協議

 例えば、四国徳島の吉野川の例を考える。これは、河川法改正後に治水施設の第十堰の建設の可否をめぐって、住民投票が行われた河川である。"吉野川"はこれだけの大議論があったのだから、当然、その後、改正河川法のもとで、この川こそは個々の手続きが見直され、変革の実績が上がっているものと思われた。

 ところが、実際には、本ウェブ《さうすウェーブ》の記事に見られるように、国際的にもトップクラスの生態系がある河口干潟の保全に関しても、充分な措置がまったくといっていいほどとられていない。
 この河口干潟にとっての目前の危機は、干潟の水の流れや鳥たちが利用する空間、人々の開放感の源泉である広々とした視界と音響空間といった河口環境に大きな影響を与えるであろう道路事業による「架橋問題」と、汽水域の塩分バランスに影響する農業利水を目的とした「農地防災事業問題」である。

 これらの事業は、河川管理者は協議される相手であり、受身、である。私が戸惑うのは、治水問題にはかほどに戦った吉野川の管理者が、受身となる事業には消極的あるいは無策である点である。これは、自分が主体でないとがんばれない精神性に起因するのかもしれないが、しかし、河川環境保全という点では、治水・利水・環境・市民参加という四要素の共通解を具体的に求めていく作業なはずだ。この未踏の分野に熱心に挑んでもいいはずだ。


河口の空間でトラウマを超える

 吉野川河口干潟の環境保全問題は、河川環境管理や環境を導入した河川技術という点からも、注目される。
 そしてさらに、私が期待したいことがある。
 それは、「トラウマ」の克服である。一度大きな争いごとがあった河川や海は、その世代が消えて記憶が風化するまで、具体的な検討のしなおしがなされないことがある。議論をタブー化したとたん、組織内の個人は萎縮し、アイデアが生まれない。セクターの違う人々がなごやかに話すことも難しくなる。私の調査地の八坂川は、過去も、そして私が関わり始めたときも、地域では河川計画はタブーのなかにあった。現在、研究でこの川の改修の経緯を調べているが、もしも、タブー化せずに、各々がトラウマを超えることができたなら、もっとよりよい計画変更や調整がありえたかもしれないのだ。この心理的な壁を最初に本格的に関わった川では、私は超えることができなかった。だからこそ、超えた人たちのすごさを息を飲む思いで聴く。

 吉野川は、第十堰問題で河川管理者にとっては、おそらく大きなトラウマとなっているであろう河川である。しかし、架橋や農業利水のほかの事業は傷ついている相手を待ってから協議には来てくれない。それだけに、改正河川法のもとでの、トップクラスの河口干潟を保全するための「改正河川協議」にもとづく新しい河川のあり方があっていいはずだ。

 中央構造線に沿って四国の大地を三角形に切れ込んで流れる吉野川。その大河が海に出会うところが河口である。河口の広大な空間に立つと、過去のシビアな思いも片隅に抱きながら、それでも、なお、これからの吉野川のために何ができるかを深呼吸しながら考えられるような勇気が湧いてくるのが不思議である。
 吉野川の市民、研究者、管理者が、新しい具体策をこつこつ作っていくこと、それが開拓であると、やはり他の川に関わる人たちも期待しているのではないだろうか。もちろん、私はその一人であり、自分に何ができるかを考えているところである。

(河川・海岸・沿岸環境保全学)