"「水俣病」をより広くしってもらいたい" 市民との間に活発に議論
水俣病センター相思社は、海外からの参加者や市民に水俣病について知ってもらいたいという意図で、10月16、17の両日、水俣市公民会館でレクチャーとシンポジウムを開いた。地元に根を張った活動をしているだけに、多くの市民が参加し、夜遅い時間まで熱心な質疑が続けられた。
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政治学者や社会学者など幅広く加わっていたら…:原田
【 第1日・レクチャー 】
第1日は10月16日午後7時過ぎから、いまやミスター・サテライトになった感じの
原田正純・熊本学園大学教授が講演者で、「水俣病が映す世界」と題して、概要次のように講演した。
- 医者としての闘いと言っても良いと思うが、私なりに思い起こせば水俣病現象は1940年にロン
ドンで起こったことと一致し、それを知って"へその緒"を調べたらどうかという発想に至っ
た。周囲に話したら、あっという間に100個集まった。
- そして、私が言いたいことの一つは、今回の「水銀国際会議」において水俣病研究報告の中で認定
された水俣病を扱っているが、1965年に新潟グループが作ったクライテリア−環境問題で健康に与える汚染要因の判定条件−がいまだに残っているということだ。
- 要は、当時の行政(通産省)はチッソに対し、排水禁止令を初め何もしていないということで、
その間に不知火海全体に汚染が広がったわけだから、その責任は大きいといまさらながら言わざるを得ない。しかも、チッソはちゃんとコントロールしていたと信じていたわけだから、水俣病の歴史はまさに後手後手の歴史だ。
- その後の経過を振り返っても、初期の微細な症状を日本は切り捨ててきた。したがって、その頃
のデータは持っていないわけで、それゆえに自分を初め、関わってきた研究者は恥ずかしいとい
う思いをしている。本来なら、不知火海に貴重なデータがあったんだ。しかし、それをキチンと
検証しなかった。悔やむ。
- 言訳だが、患者の治療対策に頭が行ってしまった。これらの反省なしに"水俣の教訓"なんて
ありえない。
- この40年間に素晴らしい発見もあったが、失敗と怠慢の方が多かった。被害者に本当に申し訳 ないと思っている。
- これからは若い人たちが100年も200年も水俣病のことを研究してくれることを望みたい。
この後、会場からの「社会科学と医学のバランス」についての質問に、原田さんは「もともと社会のことに目を向けることをしなかった。水俣病は水俣という狭い医学に閉じ込めたのが問題だった。最初から政治学者や法律学者、社会学者が参加して取組んでいたら違っていたのではないか。医学に水俣病を全て任せたのが問題だった」と答えた。
2回目は米・日の学者がシンポジウム
【 第2日・シンポジウム 】
第2日は10月17日午後7時から、同じ会場で「社会的事件としての水俣病−その歴史と教訓−」というテーマでのシンポジウムを歴史学者のティモシー・ジョージ・米ロードアイランド大学助教授と、水俣病研究では草分けの宇井純・沖縄大学教授が講演した。
ジョージ氏:戦後民主主義の可能性と限界
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| これからどう打破していくかが真の解決策だと語るジョージさん |
初めに、ジョージさんが「水俣病の戦後日本史における重要性」について概要次のように述べた。
- 水俣病事件を振りかえると重要な三つの解決策があった。その1は和解の最終解決案だが、国
は(責任を)認めたわけではない。その2は、未認定患者には(補償金は)払われないということ。その3は、(原因企業の)チッソは存続するということだ。そして、なお関西訴訟が行われているが、第4の解決策は無理だろう。
- 水俣病事件がどのような意味を持っているか、と考えた時、戦後民主主義の可能性と限界を端的
に現わしていると思う。
- 認定患者の判定基準は制度的に整っているかどうかという点で見ると、水俣病は当てはまらない。
- 重要な点は、状況状況に応じて一定の成果は上げてきたが、ある種のバランスを取ることにより、
制度に結びつかなかったことではないだろうか。この限界を今後どう打破していくかが水俣病事
件を終わらせる真の解決策と考える。
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