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熊本学園大学「水俣学」レポ・第8回 = フリーアナウンサー・宮澤信雄さんが講義 = “水俣病の歴史は権力との闘いだった” 無関心から『40年史』を書くまでを熱弁 |
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熊本学園大学「水俣学」の第8回講義は2002年11月15日午前10時40分から、元NHKアナウンサーで、現在はフリーアナウンサーとして30年以上にわたって、
水俣病事件に取り組んできた宮澤信雄さんが講師。
講義の概要を引き続き田尻雅美さんが寄稿してくれた。
【文:田尻雅美/写真:西田陽子】
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記録をきちっと取るジャーナリストの姿勢を見た
いつものように、原田先生から講師紹介が次のように行なわれた。
宮澤さんは1959年東京教育大学哲学学科卒業、NHKアナウンサーとなる。1995年11月にNHKを退職、宮崎に在住し、現在はフリーアナウンサー。
知り合って、うん十年。水俣、新潟に一緒に調査に行った。宮澤さんから学んだことは、住所、電話番号も控えて、きちんとしているところ。
熊本には1967年、九州横断道路、天草五橋が出来たころ転勤できた。 水俣病のことは、かすかに意識にあったが、とっくに終っているものと思っていた。 新潟が裁判を起こして、1968年に新潟から水俣に患者さんが交流をしに来たことが新聞に載った。しかし、興味を持たなかった。 当時、四大公害があった。日本の高度経済発展のために環境破壊がされていた。 1968年5月にイタイイタイ病を公害とする政府公式見解が出た。 その後、熊本、新潟と公式見解が出された。 しかし、10年前に水俣病は終っていたと思っていた。だから原因、責任ははっきりと完全に決着がついていると思っていたので、 今頃なにをするんだろうと思っていた。 1968年8月の熊本日日新聞で水俣病家庭互助会が補償要求をしません、裁判を起こしません、と公にしていた。これを見たとき、 これはどうしたんだと思った。色んな問題をはらんでいると思った。これはおかしいと思って調べ始めた。 番組で取材があるとき希望して、1968年8月27日に水俣に行った。 市民会議の人たちに会った。市民会議は新潟水俣病の患者さんたちが来た時、少数の水俣の人たちが支援しようと集まった人たち。当時は、市民会議の人たちは、白い目で見られ「寝た子を起こすな」とよく言われた。騒ぎを繰り返すことをやめろというのが水俣の世論だった。 というのを、日吉フミ子さん、松本勉さんに聞いた。そして、患者家庭互助会が「補償要求しません、裁判を起こしません」と言っているのは、周りを意識してのことだと思った。 そして次に、チッソ水俣工場に行った。まず一番に、廃水処理として作られたサイクレーターに連れていかれた。これは1959年に作られて、1960年から動いていたから工場の廃水はきれいになっているんですよという説明を聞いて、私はなんにも知らないからふんふんとうなずいていた。 そして総務部長がする説明は、「もう私たちは1960年から後水俣病の原因についての論争からは手を引きました。それ以来患者家族にあわせて7200万の金を年金として払って来ています。ここからはもう私たちは、この問題は済んだことと考えている、ということを言われた。ああ、そうなんだと思った。 その次に、水俣病患者さんの家を訪ねた。最初に尋ねた家は、娘さんが2人水俣病患者で14、5才だった。お母さんが二人の娘を抱えて、「買い物に行くこともできない。これから段々成長してくる。将来どうなるのかわからない、本当はねんごろに面倒見てもらいたいんだけど。」と言われていた。 次に、水俣の一番外れの漁村、茂道に行った。重症の胎児性患者のお母さんに会った。「こんな子を抱えて暮らすのは本当に大変なんですよ。憎いのは、会社だ。もっと会社がちゃんと面倒を見てくれたら」と私たちには言う。 そしたら、こないだの患者家庭互助会の補償はしません、裁判はしませんという申し合わせは、違うじゃないか。一人一人の患者を訪ねるとそういう声があるんだ。 待てよ、これはもしかしたら被害者がまともに補償を要求させない雰囲気がこの町にはあるんだと思った。 ちょうどその頃、水俣市の中で水俣病の名前を変えて欲しいという運動があった。水俣病イコール水俣市となるから。必ずなにか大きな出来事が水俣であると、その度に名前変更運動が出てくる。つい2年前にもあった。 私は、変えてはならないと思う。水俣病というのは水俣という町そのものが病んでいる病気だと思った。なんて適切な名前だろうと思った。
私たちが生きているこの時代に、こんなどえらい事件があって、しかも終ったと思っていたのに本当は終ってない。 当時、水俣病患者と認定された人は111人だった。その家族を含めるとかなりの人が被害者。その人たちが抑圧されて、言いたいことも言えない、この事件はかなり大変な事件だと思った。 そして、仕事の傍ら、休みのとき、水俣に通って見続けることを決めた。なによりも本当にショックを受けたのは、政府の公式見解が近づいた1968年9月18日取材で湯道、胎児性患者さん13歳の家に行った時のこと。 3歳時並の体重でとてもやせて寝たきりだった。普通だったら、床ずれ、褥創ができるのだが、彼にはなかった。親がいかに念入りにいたわっているのがわかる。 水俣病の重症の人は、飲み込むことがうまくできない。初期の水俣病重症患者は誤飲で肺炎を起こして死ぬ人が多かった。 彼も、おじやなどを少しずつ少しずつ口に入れてもらって、一回の食事に時間をずいぶんかけて食べていた。 私が行ったときに、おばあちゃんが「放送局のおじさんだよ」と言う。そうすると、白目が上にいって口がうっと動く。 私は、笑ったんだなと思うんだが、だけど抱き起こそうとするといよいよツッパリが強くなるし、のどのごろごろが強くなるから怖くなって「抱き起こさないでくれ」と言えなくて、 「わからないでしょう、わかりませんよ」ということを言って、抱き起こすなという意思表示をした。 だけどおばあちゃんが「いいや、この子は人が来ると喜ぶ」と言って抱き起こす。その時に、目が動いて口がうっと上がるから、笑ったんだ、わかるんだと思った。 おばあちゃんが言うには「この子は人が来ると嬉しいんだ。外に行くのを喜ぶんだ。特に天気がいい日に行くと喜ぶ。ところが、喜ぶと身体がツッパリだす。慌てて家に入る。」 「医者たちは、目も見えず、耳も聞こえずなにもわからないと言うが、この子は喜んでいるのです」 私もそう思った。 彼の魂は、土牢の中に入れられていて、かすかに光がさすとそれに魂が答えようとする。(この時宮澤さんは、込みあげる涙を必死にこらえた声だった。)そうすると今度ツッパリが起きる。 喜ぶことさえ出来ないような身体で生まれてきた。本当にこんなことがあるのだろうかと思った。 そして、おばあちゃん、お母さんに政府見解でチッソの責任が認められそうなのだが、そしたらどうするのですかと聞いた。すると「わしらにはなんにもわかりません、偉か人にまかせてありますけん」と答えた。 それを聞いたとき、あー、こういう人たちであるのをいいことに、被害を与えっぱなし。責任をとろうとしない。その状態を放ったらかしにしている熊本県、国というのは許せないと思った。 しかも、単なる公害といわれるが、公害なんてものじゃなく犯罪、企業犯罪だという思いがした。
政府見解の概要は次の通りだ。 前半は、水俣病は水俣湾の魚を食べたことによって起きる神経系の病気と書かれている。こんなことは、10年も前にわかっていた。わかっていたがなにもせず、放っといた。 そのあとが問題で「水俣病患者の発生は昭和35年を最後として、終息しているが、これは、昭和32年秋に水俣湾の魚貝類の摂食が禁止されたことや、工場の廃水処理施設が昭和35年1月以降整備されたことによると考えられる。なお、アセトアルデヒド酢酸設備の工程は本年(1968年5月)より操業を中止した。」 その当時は、よくわからなかったが、その後ずっといろんな事を調べたら最後のアセトアルデヒド操業中止以外は、全部嘘、あるいは間違い。水俣病患者の発生は昭和35年で終息などしていなかった。ずっと出続けていた。ただ終ったということになっていただけだ。 なぜ終わったのかというと、昭和32年に水俣湾の魚貝類の摂食が禁止されたから。これは嘘っぱち。1度も、水俣湾で魚が危険だから食べてはいけないといった禁止はされたことはなかった。禁止されたのは、ずっと後の1973年。 工場廃水処理施設は、私が最初に水俣に行ったとき、案内されたサイクレーター。実は、運転は始めたが、水に混じった浮遊物、固形物を取り除くための設備であって、水に溶けている水銀は一切取れなかった。ところが、これで綺麗になったとみんなを安心させた、騙した。実は、工場もこの設備が水銀を取り除けないことを知っていたので、別の所に捨てていた。 一体どうして政府の見解がこんなになるのか。それは、担当者がクルクル変わるから。役所は2年か3年で人が代わる。そして忘れてしまう。自分がいる間、仕事が無事に終ればいい。新しく勉強しようとしない。
署名は、全部で45万になった。内閣府でも、すごい数といわれた。100万を目指している。 環境省の水俣病担当は、特殊疾病対策室。室長が2ヵ月前に代わった。水俣病のことは何も知らない女性だった。勉強して下さいというと、「粛々とやるだけです」と答えた。私は粛々という言葉を聞くと、頭がかぁっとする。官僚や政治家の決まり文句。 これは、私たちの適当なペースでやりますという意味。要するに国は、水俣病問題は終ったのだ。残っている事務をするだけという考え方。知らない人を据えて、私たちがいって色々突っ込んだら、ハイハイと聞いて時間を稼いでいればそれでいいという考えかた。 特殊疾病対策室の上にある担当は、環境保健部。この部長も代わったばかりで、水俣病の事を知らない人ばかり。 国にとって水俣病問題は終っている。今最高裁にかかっているから、全部は最高裁任せ。結論を待てばいい。 前の担当者は水俣病と全然関係ないところに行って、「もう知らないよ」と過ごしている。それが組織のあり方。
薬害エイズ事件。血友病は、男性にのみ発病する病気。血友病患者の出血を抑える注射、アメリカのトラベノール会社がつくった非加熱製剤にエイズ患者の血液が混ざっていた。1983年3月にアメリカでエイズが発病したので、日本にも連絡があった。アメリカではすぐ回収されたが、日本では何もしなかった。 厚生省、郡司さんがしたことは、製剤を回収する変わりにエイズ研究班をつくった。帝京大学の安部さんが班長。その時すでに安部さんのところで発病していることが分かっていたがなにも対策を講じなかった。そして、患者の方が危険な事に気付いた。 1983年9月に患者が回収してくれと申し入れを厚生省にした。厚生省は、薬品会社に非加熱製剤の残りがどれだけあるか聞いた。在庫は43億円分ある。なんの手も打たず、売れ切れるまで放っていた。 薬を回収して捨てると、製薬会社が大損をすることになる。そのために嘘まで言った。そのために、2000人の血友病患者がエイズ感染し、500人が死亡した。こんなことがこの時代に起きている。 裁判になって、和解をしたが、刑事裁判だけは続いている。 エイズ患者さんの一人が、当時課長郡司さんとNHKのテレビ番組で討論をしたのを見た。その時、郡司さんは「担当が代わると、当時のことは覚えていない。私たちは、忘れようとさえする。」
「そして、新しいことを覚えようとするんだ」とぬけぬけとそういうことを言った。信じられないが、そういう姿勢だ。前のことは、特に責任を問われるような事は忘れる。
だから、1968年の政府見解でも事実と違うことを平気で書かれる。しかし、水俣病の原因がチッソの工場廃水ということがわかった。患者家族は、それまでチッソが責任を認めないまま、わずかな年金を貰って肩身の狭い思いをしていた。ところが、国がチッソに責任があると認めたので、晴れ晴れと胸を張ってその日はいた。
当時、認定患者が111人いた。他に患者がいるということを、言っている。半信半疑で聞いていた。ところがいたどころの騒ぎではない。今、認定2260人。認定はされていないが政治解決で、メチル水銀の影響があると思われる人が10545人。不知火海一円で何万人という人が被害を受けていた。1968年当時は、全然知らなかった。
政府が責任を認めた以上、患者家族も申し合わせはしていたが、やはりチッソと交渉しないと世間体も悪いし、新しい補償をして欲しいという人たちがいた。しかし、チッソと4回交渉したが応えようとしない。 なぜかと言うと、見舞金契約が1959年12月30日にされていたから。 この契約の時も、未成年者の年金金額で患者家族が完全に二つに別れた。分断差別で支配するのが、力が強いもののいつものやり方。 問題は、第五条「会社は将来水俣病が工場廃水に起因することが決定した場合においても、新たな補償金の要求は一切行わないとする。」があったから、患者家族は補償要求できないと思っていた。見舞金契約が無効になると困ると思っていた。 するとチッソは、厚生省にお願いに行きなさい。厚生省が認めたんだから厚生省が面倒みてくれるよと言った。 厚生省に陳情に行くと、厚生省は斡旋委員会を作る。その代わり、人選は任せなさい。結論には異議なく従うことを約束して下さい、と言われた。患者家族は被害者なのに、そんな理不尽な話はないとかなり議論になった。ところが111人の患者家族の3分の2は、仕方がない、国の言うことに従ってチッソにあんまり逆らわずに事を収めた方がいいんだと。 これが水俣ではなく、新潟のように昭和電工と被害が起きた所と60キロも離れている所だったら、闘うでしょう。できない、いい患者になろうとなった。残りの3分の1は、被害者がそういうことをするのはおかしい、あくまでも裁判をすると決めた。とても入り組んだ、どろどろした話があった。 翌年1969年4月後の訴訟は代表になる渡辺栄蔵さんを取材。彼は「これは敵討ちだ。長いこと私たちを踏みつけにして、親や兄弟や子どもを殺された敵討ちをこれからするんだ。」と赤穂浪士を例に出して言った。 私も、そうだそうだ敵討ちなんだ。脇でもいいから加えてもらおうと思った。 1969年6月裁判が始まり、富樫貞夫先生たちと一緒にどうやったら勝てるか一生懸命勉強した。
チッソの責任が認められて、患者が勝った。 裁判が始まる前後に、それまで周りの目を恐れて黙っていた被害者たちが名乗出を始めた。1968年の終りまでに、20人位の人が申し出た。 そうすると熊大が念入りに、悪く言えば必要以上に診察する。やがて来年なると、もっと患者が増えそうだという話が次から次に伝わってくる。 当時、徳臣先生にインタビューにいった。「今から10年以上前から猫の水俣病を調べています。水俣病の患者かどうかを診るのはとても難しいことです。とくに社会的要因が絡んでいるから難しいです」というようなことを言った。 私は、社会的要因とはどういうことなのか、その時はわからなかった。 先生に、申請している20人の中に患者はいるのか聞いた。先生は「いますよ。出水の二人は間違いなく水俣病。なんでこんな人が今まで放っておかれたのかと思うぐらいだ」と言った。 しかし、5月に認定審査会で20数人審査されて認定されたのは5人。出水の人は入っていなかった。 審査委員会の徳臣先生が間違いないと言っていたのに認定されなかった。これをみておかしい、何かあると思った。それ以来、水俣病の認定制度、水俣病の医学を疑うようになった。患者数を制限するための審査会ではないかと思った。 政府の公害認定があって1年後にNHKで“1年たって”で認定制度を取り上げようと提案した。 認定制度というのは、患者を救済する仕組みでもあるけど、同時に切り捨てる仕組みでもあるということをテーマに。 どうしてこういうことになるかというと、補償が絡んでいるから。認定されるとチッソから補償金を貰う。チッソの負担が重くならないように、審査会がその数を操作すると思った。その主旨で番組をつくった。思った通りだった。 その頃、川本輝夫さんという人が、一生懸命患者を認定申請させようと掘り起こしをしていた。
水俣から伝わってくる噂によると、チッソの予算範囲内で5人。定員があるようだ。 1970年8月から、棄却されたが厚生省に行政不服の審査請求が始まった。その中心が原田先生。 水俣に行ったら、至る所に患者がいる。認定されている人は111人だが、ぞろぞろいる。 仕事柄、患者や家族の話を聞く。いつ頃悪くなった? どの病院にいつ行ったか? などを綿密に聞いて、発病したのはいつだ。症状は、いつ出てどんな風に変わっていった聞き取りを全部記録して、厚生省に提出する。 その当時、地獄巡りと言っていた。水俣病の多発地区、茂道、湯道、出月に行くと軒並みいる。 ショックを受けたのは、茂道の奥の方に身体の大きな男性が、寝たきりでいた。何を言っているのかも分からない。煙草に火をつけようとすると、手が震えてつけられないから、笑う。 漁師ではなかったが、魚をたくさん食べていた。昭和31年、すでに症状が出ていた。調査記録にはあったが、漁民でなかったので放置されていたと思う。 木材を運ぶ仕事をしており、牛を飼っていた。だから入院を勧められても入院しなかった。しかし、茂道は漁業に頼っていたので、魚が売れなくなると困るから、水俣病患者を出してはいけないという考えがあった。 名乗り出てはいけない。お互いに監視し合っていた。それをいいことに、茂道では水俣病患者はあまりいないということになっていた。 診察をした医者はいた。医者たちは知っていたはずなのに、ずっと放ったらかし。
この時に、行政がしなくてはならないことは、食中毒としての対応だった。 仕出しの弁当食べて食中毒になったら、保健所からすぐ営業停止になる。原因がわかる前になる。水俣病も食中毒。はっきりしたのが1960年の秋。 水俣病が公式に発見されたのが、1956年5月。11月には水俣湾の魚が危ない、汚しているのは工場廃水だとわかっていた。本当はこの時に手を打つべきだった。 原因がわからないといってなにもしない。原因とは原因物質のこと。これはごまかし。 水俣病の原因は、水俣湾の魚を食べること。魚を汚しているのは、工場廃水。これで充分対策は立てられる。ところが、熊本県も通産省も国も政府も、原因物質がわからないから対策は立てない、立てなくていいんだということをずっと言い続けた。 そういいながら、命令することが出来る、廃水を調べる権限があるはずの熊本県も通産省もなにもしなかった。 1967年3月。熊本県の対策委員会が出した結論は、原因がわからないから法律はなにも対応ができない。水俣の漁師には自粛してもらおう。水俣湾では漁をしないことを宣伝して、不安を与えないようにしよう。それだけだった。 最後の結論は、熊本県としては、奇病と工場とは関係ないものとして対処する。 その後も、変わらなかった。 責任者は、水上副知事。 当時、熊本県は赤字だった。チッソは熊本県の中で一番大きな会社だった。副知事は、とにかく水俣病の対策を立てようとすると金がかかる。熊本県としては、1銭も金を出したくない。同時に大きな会社は守るという二つだったと思う。 一方、国は1967年4月10日に関係各省庁が集まって対策会議を開く。決めたことは、まずは原因究明、それから対策を講じる。 それ以来、今日まで水俣病事件のキーワードは原因究明。 今でも裁判で国の責任が問われると、原因がわかっていなかったから、対策なんて講じられなかったと正当化しようとする。
今、水銀と水俣病を関係付けるのは早過ぎると一言だった。それで、棚上げになった。 原因不明の状況を国が作り出した。ここから後は国が原因を調べると取り上げた。結局なにもしないままで、原因不明の状態がずっと1968年まで続いた。 どうして、このような状況を作ったか。一つは、原因がわからないかチッソには責任がない、補償金は払わなくていい、見舞金程度ですませましょう。なによりも対策を講じない。 2001年大阪高裁裁判のポイントの一つは、1959年秋に原因がわかっていたから、1960年には対策が出来たはずだ。なにもしなかった事に責任がある。 それに対して国は、当時対策なんて簡単に出来る事が出来なかった。ある種の有機水銀化合物では困ると言った。これが上告の理由。 当時、あちこちの工場から流れる廃水で害が起きている。それで水俣病が起きた頃、水質二法ができた。水俣には適用しなかった。1959年11月に手続きはしたが、対象地区になったのは、1969年2月、10年も経ってからだ。これで国の怠慢とならないのはおかしい。 1960年の段階で国がすべきだったことは二つ。工場廃水を調べて規制をすること。水俣、それに続く不知火海の人たちを念入りに調べること、魚、環境の水銀値をずっと調べること。 一番ひどいのは、見舞金契約の中に「今後発生した患者については、水俣病患者審査会が患者と認定した者に見舞金を交付する。」 そして本人申請の建前があって、「患者審査会申し合わせ」が1960年2月3日に行なわれる。「審査を受けようとする患者又はその家族は、申請書に医師の診断書を添えて申し出ること」 当時、奇病は伝染病だといって、恐ろしくてならない。しかも症状がひどかったから。 水俣病だとなると周りから迫害、差別を受ける。この段階では、誰も名乗出る人はいなかった。そのことを保健所もみんな知っていた。それなのに、審査を受ける人は自分から申し出ること。申し出はなかった。知っている限り自分から申し出たのは2人だけだった。 1人は、水俣市のひとで症状があまりにも重かったので、家族がみるにみかねてあちこちの病院を回って、最後に保健所に駆け込んだ。さすがに保健所が申し出て申請するといいと言われて申請した。もう一人は、町の医者が水俣病に間違いないから申請したらいいと言われて申請した。 審査をしてもらったが、症状をきちんと拾ってもらえずに水俣病が否定され、放ったらかしになった。 1960年夏に熊大第一内科が多発地区で住民検診をして、3人認定した。本人の申請ではなかった。しかも、症状が軽くて、本人が申し出なかった人をこっちがみつけてやったんだみたいなことだった。あと何人も、神経症状を訴える人がいたにもかかわらず、そのあと全部放ったらかしだった。 水俣に行き始めて、1960年夏に検診を受けたて症状があることを先生から認められて、「これからひどくなるから気をつけなさい」と言われたという人が何人もいた。 ところが10年間放ったらかし。それで水俣病は1960年で終った。政府の見解はこのこと。 これは、何も調査をしなかったから、そしてまた申し出る人がいなかったから、まるで終ったように見えていたというだけ。
工場廃水は、水俣湾に出ていた。今は埋め立てられ、海はない。1958年から水俣湾があまりにも汚れすぎたので、チッソは内緒で八幡プールから水俣川に流した。だから、被害が水俣川で出始め、津奈木で出始めた。1959年夏から秋にかけて大騒ぎになった。 サイクレーターは、工場の裏の方にある。今でも、道沿いに見る事が出来る。 サイクレーターでは、水銀が取り除けないことがわかっていたから、その後10年間ずっと、八幡プールの方に流していた。メチル水銀を含んだ廃水は、プールの底はコンクリートではないので、海に流れ出て不知火海一体を汚染した。 1968年5月アセトアルデヒド酢酸工程操業を停止するまで、流れていた。だから不知火海一円に被害者が出ている。 水俣病の歴史は、最初は水俣湾、次は不知火海。そこがチッソの廃水の捨て場として、漁民がどうなっても構わない。とにかく捨て場として、毒であることを知りながら流しつづけた。だから、被害が極大にまで増した。不知火海沿岸で水俣病の症状をあらわす人が1万人以上に及んだ。 取り返しのつかない状況になった時に、行政は医学者を集め、感覚障害だけでは水俣病とすることができない。そういう医学者だけに研究費をたくさん出す。そして、国の思うとおりの結論を出させる。そういうのが集まって、水俣病隠蔽医学業界を作っている。 仲間に入れてもらえない人が一人いた。原田先生だ。 関西訴訟は、これは我慢できない。どんなに差別され、迫害を受けようと最後まで闘い続ける。原告の数はわずか58人、そのうち22人が死亡。平均年齢は70歳を越えている。 転勤で、京都、大阪にいた時に関西で水俣病の裁判が始まっていた。テレビでニュースを読んでいるのを、見つかって応援を頼まれ応援することになった。とてもいい勉強になった。どうやったら国の責任を明らかにすることが出来るか弁護士さんと一緒にやった。 その成果が『水俣病事件四十年』だ。この本のように、水俣病事件の歴史をずっとたどって書いているのはそうないと自負している。 国は、水俣病は終ったということにして、大阪の患者たちが死ぬのを待っている。 水俣学が始まった一つの動機は、原田先生の言葉によると谷中村、足尾鉱毒事件。
水俣病の政治解決は、それだと思っている。感覚障害はあるけど水俣病じゃありません。国には公的責任はありません。裁判を取り下げなさい。認定申請も止めなさい。全部止めさせている。チッソに260万払わせるから、いいじゃないか。医療費あげるよ。 だけど水俣病じゃないよ。念入りに念入りに言い聞かせた。そして、10545人が受け入れた。 つまり、水俣病なんて被害はなくなったんだ。もう全部なくなった。谷中村とそっくりだと思う。 しかし、関西訴訟はわずかな人が闘いつづけている。だから、今新しいことがどんどん見つかってきている。もし、政治解決を受け入れていたら、国は大威張りで“水俣病は終った”と今高いびきのはず。 ところが、わずか58人で22人死亡して残り36人でも、闘いの火がかかげ続けているかぎり、水俣病は終らない。そう思っている。 これから、皆さんもおかしいなと思ったことがあったら、そのことに心を注いで見極めて下さい。私の話しも、怪しいと思ったら調べてほしい。 言った通りだったってことだったら、皆さんが生まれるちょっと前に起きている。ついこないだまで問題が燃え盛っていたが、今は消されようとしている、そういう時代にいることを自覚して欲しい。 世の中のいろんなことに目を配って、政治や行政の権力がどんな風にひとびとに、害を与えるか。 公害は、公がつまり国や行政、公が関わって害を与えた災厄。それが公害の定義。少なくとも水俣はそう言える。 一人一人が関心を持つ、もって調べるそれだけでも変わってくる。 権力と闘うためには勉強しなくてはいけない。
◇ 学生に熱く語るあまり、20分程時間が過ぎた。しかし学生は、誰一人席を立とうとせず静かに聞いていた。 知らないことほど無責任なことはないと思った。
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| 月 日 | 内 容 | 担 当 | |
| 1) | 9月20日 | なぜ水俣学か、本学で開講するわけ | 花田昌宣 (熊本学園大学教授) |
| 水俣病の歴史(1)水俣病の発見から原因究明まで | 原田正純 (熊本学園大学教授) |
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| 2) | 9月27日 | 水俣病の歴史(2)胎児性水俣病の発見、新潟水俣病 | 原田正純 (熊本学園大学教授) |
| 3) | 10月4日 | チッソの企業体質と技術 チッソ史 | 宇井 純 (沖縄大学教授) |
| 4) | 10月11日 | チッソ労働者と水俣病 公害病と職業病との関係 | 山下善寛 (元チッソ労働組合委員長) |
| 5) | 10月18日 | 水俣病を記録して 1960年〜1997年 | 桑原史成 (報道写真家) |
| 6) | 10月25日 | 水俣病とマスコミ 主に地元紙の視点から | 高峰 武 (熊本日日新聞編集局次長) |
| 7) | 11月 8日 | 法創造に挑む水俣病 | 富樫貞夫 (志學館大学教授) |
| 8) | 11月15日 | 水俣病患者の闘い−公害と差別 | 宮澤信雄 (フリージャーナリスト) |
| 9) | 11月22日 | 海の生態系と漁業 御所浦島 | 佐藤正典 (鹿児島大学助教授) |
| 10) | 11月29日 | 被害者の想い 闘いの日々 | 浜元ニ徳 (水俣病資料館語り部) |
| 11) | 12月 6日 | 世界に広がる水銀汚染 水俣が持つ意味 | 原田正純 |
| 11) | 12月 13日 | 被害補償の経済学 | 花田昌宣 (熊本学園大学教授) 酒巻政章 (熊本学園大学教授) |
| 13) | 1月10日 | 水俣学まとめ 教訓をより確かなものに | 原田正純 |
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* 熊本学園大学社会福祉学部福祉環境学科
〒862−8680 熊本市大江2−5−1 TEL 096−364−5162 |
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