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熊本学園大学「水俣学」レポ・第7回

= 志學館大学・富樫貞夫教授が講義 =

“何事も追い詰められた時こそ道は開ける”
法律学者として水俣病事件に関わった体験吐露





熊本学園大学「水俣学」の第7回講義は2002年11月8日午前10時40分から、法律学者として30年以上にわたって、水俣病事件に取り組んできた富樫貞夫さんが講師。 講義の概要を引き続き田尻雅美さんが寄稿してくれた。

【文:田尻雅美/写真:西田陽子】







富樫さんにバリアフリーの研究を教えられた


冒頭、原田先生がこの日の講師の富樫さんを次のように紹介された。

富樫先生は1959年東北大学法学部卒業。東北大学助手、熊本大学法学部講師、助教授を得て教授に。1999年より志学館大学教授。民事訴訟、環境法専攻。1969年より水俣病研究会を立ち上げた主な会員として水俣病裁判支援、研究に取り組んでいる。 富樫先生と私は、専門は違うが水俣病研究会でお互いの専門の枠をはずれて、目からうろこみたいなことになって、かなり影響を受けた。水俣病裁判は富樫先生をはじめ水俣病研究会の存在がなかったら、水俣病はこのような展開にはならなかったと思う。

富樫先生の『水俣病事件と法』に書かれていることは、水俣学の中で考えているバリアフリーの学問、お互いの垣根を越えて、影響し合い、アイディンティティを守りながら、共同研究していくことを富樫先生から学んだ。




国・チッソによって引き起こされた患者運動の分裂


そして、富樫先生の講義が始まった。

水俣病事件が1956年5月1日に公式な発見されてすでに46年の歴史を歩んできた。長い歴史の中でいくつか大きな転換はあるが、一番大きな転換は1968年から1969年の時点。だいぶん前に因果関係は明らかにされていたにも関わらず、国は遅れて1968年9月正式に公害認定した。それまで公的にはあいまいにされていたチッソの加害責任が明確になった。

水俣病患者家族は、改めて加害者として責任を追及し、謝罪と補償を要求した。そしてこれが水俣病患者家庭互助会の分裂のきっかけとなっていく。というのは、チッソと当時の厚生省が手を組んでいわば1959年の見舞金契約と似たような補償処理をしようという画策が進んでいたから。 チッソは、公害公式認定は国がしたことだから、患者家庭互助会が望む補償も国家が作るべきであるという奇妙な論理であった。 要するに、チッソに来るのではなくて、厚生省に陳情に行きなさいと。加害者なのに補償要求を厚生省に持って行けというおかしな話を繰り返して、一切具体的な話に入らない交渉だった。

仕方なく患者家族互助会は東京に行って厚生大臣に会った。ここで確約書が出てくる。ここで立役者である国は“具体的補償を出すわけにはいかない。しかし、困っているようだから水俣病補償処理委員会を作り、結論に意義なく従う、委員の選定も任せるという確信委任状に印をつけば厚生省は処理をしましょう”という話だった。 これで、患者内部でも激論になり互助会の3分の2の家族が印をつき、これが後の一任派となった。3分の1の家族は印を押さなかった。

押さなかったのは、補償処理委員会の本質を鋭く見抜いていたからだ。1959年12月の見舞金契約そのものである。こういうものには二度と押してはいけないという思いだった。ここで最初の患者団体の分裂が起きている。 ほかの公害被害者は一つにまとまっている。しかし、水俣病はどうして分裂していると言われるが、好き好んで分裂したわけではなくチッソと厚生省が起こした分裂である。




だが、少数派の“裁判派”が事態の転換を促した


3分の1がチッソと交渉したが、チッソは相手にしなかったため、最後に裁判に行かずにおられなくなった。これが裁判派で、当時は少数派、マイノリティーだった。

46年続く水俣病事件史の最も大きな転換点を作った。数が多ければいいというものでない、逆に少数派が状況を転換していく。

1969年6月チッソを相手取って損害賠償の裁判を起こした。

同年9月に水俣病事件研究会が結成された。

できた理由は、6月に裁判提訴したが勝てるという感じではなかった。地域、社会、厚生省からも見放されていた。第一次訴訟は事前に充分研究して裁判に絶対勝てるという見通しがない裁判だった。だから、すぐ困り、どうしたら勝てるのか。 負けるかもしれない。提起したあとにそういう問題がでてきた。専門家に参加してもらって水俣病訴訟を理論面からサポートして欲しいと、私や原田先生に話があり作られた。

第一次訴訟の裁判支援は、患者サイドに立って裁判に勝てる理論を作るものだった。そして、現在も活動は続いている。

私自身、1969年9月に水俣病に出会い33年続いている。これからも、死ぬまで続くだろう。




一見無謀とされた第一次訴訟に学ぶべきことは多い


訴訟派の訴えの提起は、当時の法律の専門家から見るとまったく無謀な企てだった。

訴訟派の選択は愚直だったが、追い詰められて道を開いた−と語る富樫さん
ほかの高名な法律家は、早く和解したほうがよい、最後まで裁判闘争していくことは自殺行為に等しいと助言した。そういうなかで始まった裁判だった。

私を含め、人間は追い詰められるととんでもない力が出てくる。楽をしようと思っているかぎり自分の持つ本当の力が出ない。これは、水俣病患者にも言えること。

一任派は、ある意味で楽な道を選択した。厚生省、水俣地域社会、チッソも受け入れる。

それに対して訴訟派が選んだ道は、一番愚かな道。地域社会から完全に孤立し、誰もバックアップしてくれない。だが、追い詰められてものすごいエネルギーが爆発する。

それを水俣病の教訓として是非覚えていて欲しい。追い詰められたら絶望ではない。そこから何か始まる。そこから自分が予想もしなかったような展開が始まる。そういうことを水俣病から学ぶ必要がある。




水俣病裁判は法創造に挑んだ典型例だ


法創造は、具体的に言うと法を作る作用を言う。法律学では法創造に対して法適用として考える。

近代国家においては、司法、立法、行政に分け、担当する機関は裁判所、国会、行政官庁だ。それぞれの枠を守りながら国全体の国政を運営するという建前。立法の中で法を作るのが議会。 国民の代表の議会が創った法に基づいて、行政は法を執行しなければならない。

水俣病を通して新しい法を創った。誤解を招きやすいが、国会、議会だけが法を創っているわけではない。議会が創る法は抽象的。実際に私たちに関わってくるのは裁判を通してである。

具体化され、本当の意味での法になる。リアリズム法学は、裁判を通して日々創られる。

水俣病裁判に当てはめるとまさにそうである。




「無害の証明」は今後長期にわたって害がないという考え方


第一次訴訟を具体的に話そう。

水俣病第一次訴訟は、当時、だた一つの裁判だったので単なる水俣病裁判と言われていた。

患者家族28世帯が、歴史上初めてチッソを被告として裁判に訴えた。このこと自体意味があった。

チッソだけの不法行為による損害賠償請求で、法律の根拠は民法709条不法行為成立条件を定めたもの。

患者側が、加害者チッソを訴えるには709条が定める要件は、1)因果関係 2)故意または過失 3)傷害または被害の発生が必要。
  1)はチッソの工場廃水が原因であることを証明しなければならない。
  2)チッソ側に故意または過失があったことを証明しなければならない。

故意と過失では、過失が中心で最低過失があれば犯罪が成立する。

1)の因果関係については、政府見解と熊大医学部によってほぼ解明されていたため簡単であった。

3)の被害は明らかだったので、そう難しくなかたった。

問題は2)で、それまでチッソの過失は問われていない問題だった。


最大の争点はチッソの過失であった。

それまで法学者が考えていた過失は、簡単にいうと予見可能性。

水俣病問題でも過失とは何か、という根本的なものが大きな問題となった。

従来は予見可能性を重視

A:原因行為  B:結果(損害)

加害者がA:原因行為をすれば間違いなくB:結果(損害)が起る。

1)の因果関係がわかるかどうかが予見可能性。わかれば回避できる。そういう状況にもかかわらず発生させれば責任がある。

従来の考え方でいくと水俣病は予見可能性が争点となる。

話を一般化すると、水俣病が起ることがわかっていたかどうかが大きな争点。

原田先生に登場して欲しいと思うが、原田先生は「水俣病の前に水俣病は存在しない」と言っている。原田先生が間違たことは言っていない。しかし、この発言を過失の前に持ってくると大変困ったことになる。

つまり、原田先生の発言はチッソを擁護してしまい、過失を問えないことになる。

実際チッソも、裁判でそのことを主張した。原田先生は過失論として話したわけではないが、チッソを擁護する理論になり得る。

この壁を打ち破らないと患者は全面敗訴せざるを得ない。だから過失そのものの考え方をひっくり返さなければ、水俣病におけるチッソの責任を問えない。

幸いに出会った一つの考え方が、安全性の考え方であった。これを日本で最初に提唱したのは武谷三夫氏で、幸いに出会った一つの考え方が、安全性の考え方であった。これを日本で最初に提唱したのが武谷三男理論だった。

無害の証明。無害であることが証明されない限り使ってはいけないというもの。

これは、現在、今だけでなく、10年、20年50年先にもないことを証明することを含んでいる。

出発点は核爆発実験であったが、この安全性の考え方は農薬、公害にも適応できると考えた。

つまり、化学工場では危険な化学物質を使用しているので、廃水は有害なものが多い。廃水を分析すればわかる。

もともと危険性のリスクの高いものを環境に排出する際に、有害な影響を与えないか充分にチェックしておかねばならない。

しかし、チッソは全くしていなかった。




「安全性確保義務」の理論構築でチッソの責任明確化


過失を再構築し、過失を安全確保義務に置き換えた。

当時、工場内で何を使用していたかは企業秘密だった。まして漁民には与り知れなかった。住民に対しても、危険だと一度も言わず黙って廃水を流していた。 チッソは独占し公開しなかった。だから、住民が被害を避ける方法は何もなかった。

このような関係にあるため工場は安全確保義務が負わされている。それを怠った結果、被害があればチッソに責任がある。特に公害においては、安全性の義務は重要。

チッソが安全性確保を守らなければ、過失ありという理論である。それまで、こういうことを言った法律家はいなかった。

1970年に「水俣病は工場の責任」という見解が表面化した。

学会でも言われたことがない新しいことが出て、裁判所も保守的なところなので、驚いた。裁判官も驚いたと思う。当時、裁判官の表情からとまどいを感じた。

安全性確保義務は論理的に説得性がある。しかし、認められた場合、学会、行政、チッソが納得するか不安はあった。

裁判長たちからは、納得しているという印象を受けていた。

理論だけでなく、立証事実がないといけない。両方が必要。

水俣病裁判の場合、追い詰められた結果できた。

そして判決は、われわれの理論にそっくりの理論だった




チッソの廃水処理の実態は、全く駄目だった


1932年、水銀を使ってアセドアルデヒドの生産を始めた。その後、水銀を含む廃水を無処理で流していた。今思うと考えられないことだ。

しかし、それを支える廃水処理の理論、希釈拡散理論があった。希釈拡散すれば無害になる。

宇井純先生によれば、当時東大で勉強した時もそう教えられたそうだ。教科書にも書いてあった。この理論があって、そのまま排出されていた。

チッソだけがひどい会社というわけではなくて、他もそうしていた。

今日では、完全に間違い。

希釈拡散理論は、日常の常識に合致している。しかし、完全に間違いで、薄められても、なくなることはない。有害は有害のままである。

チッソは廃水処理らしき事をしたが、全く無意味なことだった。1958年5月排水路を一年間変更したが、水俣の漁業被害を拡大した。 結局、漁業者たちのチッソに向ける批判の結果漁業対策として変更しただけであった。後から考えると、人体実験としか言えない。

1959年にはサイクレーターを当時の金額で1億円かけて作ったが、水銀除去には効果がなかった。

最終的に1966年6月まで廃水を流しつづけた。この時廃水処理にあたいするものが作られた。当時の金額で50万円。この時まで出来ないような装置でもなかった。

安全性の欠落の証左ではないか。




水俣病第一次訴訟の判決は“道理の勝利”だった


訴訟派患者家族にとって、裁判の展開がこうなるとは予想もしていなかったと思う。

患者たちは、裁判理論は知らないが、問題に関する道理は自分たちにあるという確信は非常に強かった。

一つは、水俣病第一次訴訟の判決は患者の確信化していた道理の勝利と言っていい。

ややこしい理論は山ほどあるが、裁判に何が肝心かと言うと、道理性の感覚。これがあれば、どうにかなる。

二つめは課題。苦労して展開した安全性の考え方は、チッソの過失責任を明らかにし有効な働きをしたと思う。安全性確保はもっと普遍性のある考え方。

1973年7月第一次訴訟の判決が出て、どれだけ日本社会に定着したか。健康を守るだけ定着したか。まだまだだと思う。

英字紙『Japan Times』にメチル水銀中毒に関する記事で、水銀汚染された魚を食べた人間にどういう影響がでているか紹介されていた。
富樫さんの結論は「日本はリスク管理がまったくできていない。水俣病の教訓が活かされていない」だった

アメリカのAP通信は、アメリカ合衆国食品薬局(FDA)がメチル水銀汚染魚をどの人たちが、どの程度食べていいかガイドラインを近く発表する。 最近、水銀の微量汚染の胎児への影響が注目されており、FDAもそこに焦点を絞って具体的ガイドラインを出すだろう。妊婦と乳幼児は1週間に2回以上魚をとってはいけないとなりそうだ。量ではなくて食事回数で考えている。おおざっぱではあるが、具体的で分かりやすい。

記事の最後に日本のことが「日本は世界でも有数の魚消費国である。ところが日本政府は、これまでまったく魚の消費に関するガイドラインをつくったことがない。」と書いてある。批判されている。

日本はリスク評価、管理が全くできていない。安全性確保が、定着していない。水俣病の教訓が活かされていない。



これが富樫先生のこの日の結語であったが、最後に原田先生が締めくくりを含めて、こう発言された。

専門家と非専門化家がいる。法律に関して富樫さんは専門家、私はアマチュア。この話が研究会で最初に出た時に自然科学で困ると思ったのは、最初の事件に責任がないこと。初めて人類が経験したと責任が問われないと非常に困るところから接点が出来、議論が出来、教えられた。

安全性確保義務が社会に定着していたら、薬害エイズは起らなかった。カネミ油症、薬害もかなりの部分予防できたと思う。水俣だけの事件として捉えると、非常に狭いものになってしまう。







水俣病裁判を法律家の立場から、具体的に話された。当時の苦労がひしひしと伝わった。安全性確保理論が日本だけでなく世界に定着することを願いたい。追い詰められたら終わりじゃない、新しい展開がある。この言葉に未来の希望を見出せた。






◇          ★          ◇




《水俣学講義計画案(平成14年度)》
 
各日10:40−12:10

 

  月  日内           容担 当
1) 9月20日 なぜ水俣学か、本学で開講するわけ花田昌宣
(熊本学園大学教授)
 水俣病の歴史(1)水俣病の発見から原因究明まで原田正純
(熊本学園大学教授)
2) 9月27日 水俣病の歴史(2)胎児性水俣病の発見、新潟水俣病原田正純
(熊本学園大学教授)
3) 10月4日 チッソの企業体質と技術
  チッソ史
宇井 純
(沖縄大学教授)
4) 10月11日 チッソ労働者と水俣病
  公害病と職業病との関係
山下善寛
(元チッソ労働組合委員長)
5) 10月18日 水俣病を記録して
   1960年〜1997年
桑原史成
(報道写真家)
6) 10月25日 水俣病とマスコミ
   主に地元紙の視点から
高峰 武
(熊本日日新聞編集局次長)
7) 11月 8日 法創造に挑む水俣病
富樫貞夫
(志學館大学教授)
8) 11月15日 水俣病患者の闘い−公害と差別宮澤信雄
(フリージャーナリスト)
9) 11月22日 海の生態系と漁業佐藤正典
(鹿児島大学助教授)
10) 11月29日 被害者の想い
   闘いの日々
水俣病患者・家族
11) 12月 6日 世界に広がる水銀汚染
   水俣が持つ意味
原田正純
12) 12月13日 もやい直しとは
   患者の自立と水俣の再生
吉井正澄
(前水俣市長)
13) 1月10日 水俣学まとめ
   教訓をより確かなものに
原田正純


* 熊本学園大学社会福祉学部福祉環境学科
 
   〒862−8680 熊本市大江2−5−1 TEL 096−364−5162






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