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熊本学園大学「水俣学」レポ・第6回

= 熊本日日新聞・高峰 武さんが講義 =

恐ろしい“あの時は仕方なかった”という言葉
地元ジャーナリストとして反省に立って熱弁振るう





熊本学園大学「水俣学」の第6回講義は2002年10月25日午前10時40分から、地元マスコミの代表的存在『熊本日日新聞』の編集局次長・高峰 武さんが講師。 全国紙の記者と違って長期にわたって水俣病事件に取り組んできた高峰さんの講義の概要を引き続き田尻雅美さんが寄稿してくれた。

【文:田尻雅美/写真も】







冒頭、原田先生がこの日の講師の高峰さんをこのように紹介された。


講義の準備をする高峰さん(右)と原田さん
1988年IPCS(毒物の安全性を決める国際機関)から大人の毛髪水銀値は50ppmという規準があったが、カナダ、ニュージーランド、イラクからのレポートでは、妊娠した女性では胎児に影響が出るという報告書が出た。しかし、日本の環境庁(当時)ではこのレポートはマル秘情報にした。族学者がもみ消すためにどうしたらよいのかという動きだった。その内部文書を(原田先生が)手に入れ、それを暴き、真相を明らかにしたのが高峰さんであった。このことが一番残っている高峰さんの印象だ。マスコミが果たす役割をしっかり果たしたと思う。

また、熊本日日新聞(以下『熊日』)は、当然といえば当然だが一貫して水俣病問題を報道してきた。全国紙は、担当記者が2年毎に替わるが、熊日は、先輩から後輩に伝承してきている。これはとても大きな財産である。大学も同じで、地元の事を大事にし、研究し、そのことを伝承していくことが大変貴重なことだと思う。

きょうは、地元紙として水俣病とどう向かい合ってきたのか。何が足りなくて、何が良かったのか、どうあるべきだったかを話してもらいたいと思う。







水俣病事件は入口と出口が同じという不思議な事件


そして、高峰さんが壇上に。

最初に出てきた言葉は「書くほうが仕事でしゃべる事は下手」。次のような自己紹介をする。

現在50才。昭和51年『熊日』に入社し、主に社会部に所属。事件、裁判にかかわってきたなかで、水俣病問題にかかわってきた。そのことで、自分自身が鍛えられ、水俣病というやすりで砥がれてきた。会社も同じだったと思う。水俣病事件というフィルターを通して、政治、行政、地方自治などを見ることで今の社会、熊本、日本の正体に気付いていくという構図がある。

水俣病は不思議な事件だと思う。通常は、物事は入口があって出口があるのだが、水俣の場合は、入口が出口にもなっている。水俣病が何かという問いを立てるとすると、普通は、定義があって対策があり進んでいく。水俣の場合は入口、水俣病は何かという所からグルと回って出口になる。その迷路の中で医学だとか行政などいろんなものが間違ってきた。それを、新聞の立場から話していきたいと思う。


[ここで資料 水俣病関連統計 数字で見る水俣病を掲示]。 

数字の中に隠された事実がある。

水俣病事件の事を話すと「また水俣病ですか」「終ったんじゃないですか」と言われる。しかし、本当に終ったのかという問いかけをしていく必要があると思う。それは、本当は、水俣病の事はまだ何もわかっていない。統計に出ている数字があるが、統計に出ている数字が本当に水俣病の実際なのかといえば、たぶんそれは違うし、この数字が水俣の全体を表現しているわけではない。私たちは何も知らないくせに、知ったふりをする事で、水俣病事件が問いかけたことをまた見失おうとしている。水俣病問題とちゃんと向かい合う必要がある。


そして、いよいよ本題に。

『熊日』の水俣病報道の歴史は次の5つに区分できると思う。
『熊日』の水俣病事件報道の歴史は5段階にわけらるという
1) 1956〜1959年:水俣病公式発見から見舞金契約
2) 1960〜1968年8月:空白の8年。この時期に新潟水俣病発生
3) 1968年9月〜1973年7月:政府の公害認定・裁判闘争・補償協定
4) 1973年8月〜1995年:未認定患者の闘い・政府解決策
5) 1996年〜現在:関西訴訟から現在
報道の水俣病の歴史を単純に分かりやすく言うと、補償問題が起きた時、報道が増える。今日の話しのキーワードは、「補償」と「認定制度」だ。

1)の時期に見舞金契約でお金が出た。死者30万円、生存者10万円。

3)の時期に裁判に勝って補償のルールが出来、1600〜1800万円が認定患者のみに出た。これ以後、認定が厳しくなる。それから、未認定患者の闘いが23年くらい続いている。

最終的に4)の当時、連立政権の政府解決策で一人260万円。しかし、これは水俣病患者ではないが訴える理由にはそれなりの理由があるという不思議な理屈だった。団体加算金が出たが、これはそれまでの運動の紛争処理として支払われた。 それに唯一乗らなかったのが、いわゆる関西訴訟に持ち込んだ人たちで、国の責任を明らかにしたいという思いがあった。大阪高裁で国の責任を勝ち取ったが、国が上告したため、今最高裁にい行っている。

きょうは、この5つの歴史に沿って話したい。


『熊日』に初めて水俣病関係が報道されたのは、昭和29年8月1日付[資料提示]の「猫てんかんで全滅 水俣市茂道 ねずみの激増に悲鳴」という見出しの記事で、日本の新聞史上初めて水俣病事件が報道された記事だ。 今思えばこれには水俣病のいろいろなヒントが隠されていると思う。漁村120戸。水田もないので農薬ではないことが明らかであった。当時は、猫てんかんといわれていた。そして、よそから貰ってきた猫まで死ぬ。 猫が食べるのは魚。貰ってきた猫まで死んでしまう。茂道は、患者の激震地区。その後、全く記事は出ていない。

次に出たのは1年9ヵ月後、1951年5月16日水俣病公式患者が保健所に届けられた病気について「子どもに奇病、同じ病原か」という記事が出た。以降、たくさん記事が出てくる。 この時すでに人体被害は起きている。1952年には、水俣市漁業の依頼で漁業被害について県の調査が行われていた。漁民の間では、チッソ水俣工場の排水の被害と当然視されていた。が、しかし、その他では、一地方の不思議な現象としてとどまっていた。 奇病といわれていた。新聞紙上「水俣病」となったのは1958年8月のことだ。

1956年8月25日、熊大病院と水俣市などの第一回の研究会で、患者30人中11人が死亡していることから、ウィルス、伝染病ではないと確認されていた。同時の時代背景を見ると、チッソがアメリカの学会誌に出ており、フル生産していた。 1956年12月日本が国連に加盟。経済白書には、もはや戦後ではないと書かれた。そういう時代に水俣病が発見された。

1959年7月。原因として有機水銀説が出され、チッソ水俣工場が疑われた。そして同年11月には、厚生省食品衛生調査会が発表したのだが、翌日解散させられる。

漁民の抗議は激しさを増し11月2日には、漁民が警官隊と衝突して100人を超える負傷者が出た。ところが当時の『熊日』をみると、工場を止めろと言っているのは、漁民だけで、工場を止めないでくれという要望を熊本県知事に出したメンバーは、農協、市議会、商工会議所、 今から考えると驚くのだが労働組合も一緒に入っている。適切な言い方ではないが、オール水俣的にチッソを擁護している。漁民は孤立の中で工場の排水を止めてくれと要望していた。

当時、『熊日』水俣支局長の松永さんが昭和34年4月に社内報に書いた言葉に「不知火の海は見た目には青く澄んでいた。水俣病患者病棟は市立病院の東端にあった。そこには20人あまりの患者たちがいた。 川上さんがベッドに座ったまま、痩せ細った両手を人形のように上下に動かし、あわを吹いて苦しんでいた。発作は2時間も3時間も続いた。もだえ苦しみながら死んで行った水俣病患者の爪あとが、ベッドそばのコンクリートの壁に生々しく残っていた。 水俣病とは何なのか、私はこの時書かねばならないと強く心に誓った。警察や市役所を取材後毎日のように患者多発地区の湯道、月浦、茂道と患者宅を取材に飛び回った。袋湾や漁協には漁の出来ぬ船が無残な姿で放置され、うつろな目で船を見つめる漁民達の姿がみられた。」 当時の、水俣のムード、雰囲気が分かると思う。


紛争状態が続きチッソの依頼を受けて寺本知事が調停に入った。1959年12月30日見舞金契約がかわされた。チッソは水俣病の原因を知っていたが、将来追加請求しないことなどが書かれていた。

見舞金契約の全体の問題は、補償金ではなく、紛争処理であって問題解決ではなかった。あとで、自分自身が当時の県警本部長に取材したことがあるが、彼自身は見舞金契約や患者の状況ということは全く記憶になかった。彼が覚えていたのは、漁民が騒いでいたのでなんとかこれを押さえたかった。 自分にとって水俣病問題は治安問題だったという言い方をした。当時はみんなそんなふうに見ていたんだと思う。この調停委員は5人でその中に『熊日』の社長も入っていた。一度は断ったのだが、名前だけでいいので入ってくれといわれて入ったそうだ。後に見舞金契約は公序良俗に違反するとして無効になされる。 委員に社長が入っていたということで深刻に受け止めている。




問われる「地方紙が地域でどんな取材をしどうやって報道していくか」


地方紙が地域の中でどんな取材をしてどうやって報道していくかということが一番大事なことだ。言葉で言うと厳正・公平。厳正と言うことが大事だと思う。当時の時代の状況制約があるにしても、私たちはそのことを踏まえて水俣病問題をどう報道していくかがずっと問われると思う。 『熊日』の社会部には必ず水俣病担当を置くようにしている。会社からそう言われてしたわけでなく自主的に継続した取材ができるようにやってきた。全体がどうだかは分からないが、私自身にとっては、見舞金契約に『熊日』の社長が出ていたということのマイナスのことを考えながらやってきたような気がする。

1959年暮れのもう一つの大きな動きとしてサイクレーター(排水浄化装置)ができた。12月24日に完成式が行われ、翌日の『熊日』朝刊に出た。チッソの工場長がこれで排水は水俣川の川の水よりきれいになりますと胸を張っているが、これは水銀の浄化を目的としたものではなかった。 しかし、社会的効果はきわめて大きかった。私たちの先輩も効果が分からないままに胸をはった会社の関係者の話を載せている。これもあわせて、世の中が水俣病問題は終ったというふうに波が引くように水俣病が水面下に潜っていった。

この直前の昭和34年11月に水俣病について7回の連載をしている。私も素晴らしいレポートだと思っている。書き出しは、「政治の貧困がすべてを覆い、県民も南の端の出来事として無関心であったようだ。」この時放置された患者家族、漁民の嘆き、住民が騒がなければ動かない行政、複雑な病像、それから企業に甘い法律、という筋立てで出している。 実はこの行動というのは、それ以降四十数年の水俣病問題でずっと通じていることで、最初から問題が出された。それに結局、社会の側が答えきれなかったという気がする。




なぜ空白が8年というのか


いろんな手がかりがあったのに、それを意識的とまで言ってはいけないのかもしれないが、活かせなかった。という意味で二重の悲劇だったという意味がこの中には入っている。この時期にいくつかの記事はあった。しかしすべての問題が決着したとして記事量は大幅にダウンした。

この時期に、(1)胎児成水俣病患者が確認された。(2)入鹿山教授(熊本大学)が有機水銀そのものをチッソ水俣工場から発見した。イコール犯人を見つけたことになる。これは昭和63年2月17日に『熊日』の特ダネで書かれている。捜査当局も大いに関心を持つという水俣病について捜査当局の唯一のコメントがあった。 しかし、動きはなかった。つまり、今までのことも何もしないための言訳だったことが浮彫りになったような気がする。この時期に医学、行政、マスコミ、捜査それぞれの部署がそれぞれ立場できちんとフォローしておけば、水俣病問題はかなり違った展開をしていたと思う。

最初のころは確かに原因究明が難航したこともある。なぜ難航するかというと、チッソが非協力だったから。やっとたどりついて、最初は重症の典型の人たちを救っていた。実は、その後ろにたくさん被害者の人、重症の人も残されていた。しかし結局フォローもされなかったということ。 個人的取材体験として認定審査会の教授が「35年以後手足がしびれて仕方がないという患者がたくさん来たが、しょんなか(しょうがない)と言って帰した。今後悔している」と言っていた。その時に、なぜしびれた患者がたくさん来るのかということを調査するとずいぶんその後の水俣病問題の展開が違っていた。そして、新潟水俣病が発生した。 結局、熊本の水俣病がきちんとされていなかったので起きたと言ってもいいと思う。二度の悲劇を生んでしまったような気がする。それには、マスコミの果たせなかった役割っていうのが大きいと思う。マスコミだけではないが、責任は免れないと思う。

新潟水俣病の影響は大きくて、皮肉だが終ったとされていた熊本の水俣病が注目された。新潟と水俣の決定的違いは、新潟では早くから市民団体、労働組合団体が患者を支援したことである。67年には昭和電工を相手にした裁判が起こされた。ところが水俣ではオール水俣がチッソ、会社を支援し、患者を支援する人がおらず孤立していた。 石牟礼道子さん、日吉フミコさんら数少ない人、個人が支援していただけであった。

新潟水俣病を契機に問い直す動きがあって、それが大きな流れを作っていった。

この時、『熊日』は23回にわたって「水俣は叫ぶ」で「水俣病の正体は明らかになった、原因も分かった、真相のすべてが今私たちの前に姿をあらわした。」と連載したが、狙いは、政府に具体的な対策を迫ったもの、キャンペーンの性格を持ったものであった。


1968年9月。政府によって水俣病が公害認定された。不思議だが、水俣病の原因を政府が初めて認めた、最初の確認から12年たって原因が明らかにされた。問題なのは、この時チッソの工程はスクラップされて生産には全く関係なかった。用なしの設備の後始末ということにもなる。 しかし、政府による公害認定というインパクトは非常に大きかった。なにより補償金問題が再燃した。見舞金契約を押しつけられた患者団体に、正当な補償を求める動きが出てきた。厚生省が補償処理委員会という斡旋機関をつくった。この時に結論には異議なく従いますということを書かせた。これは患者にとって見舞金契約の再現になる。患者団体がもめ、分裂していった。 水俣病の歴史は患者団体の分裂の歴史でもある。この時点で分裂の始まりが起きていた。

患者団体が1969年6月に熊本地裁に提訴。当時、渡辺栄蔵団長が裁判決意表明で「本日ただいまから私たちは、国家権力に立ち向かうことになったのであります。」と言った。相手はチッソである。しかし、訴えるおじいちゃんにとっては国家権力と闘うんだという認識だ。 一見ピントが外れているようだが、水俣病問題と闘うのは国家権力と戦うことと同じだと直感的に感じていたのだろう思う。そして運動は裁判が中心になっていく。報道も裁判中心になっていった。




丸めて言う時の社会的反応まで、新聞は考えねばならない


1971年7月。環境庁が発足した。1ヵ月後にしたことは、患者の川本輝夫氏が認定棄却されたことをリターンマッチした。それに対して環境庁は認定棄却処分がおかしいということを認める裁決を出す。その時に、事務次官組織では水俣病の認定基準は否定できない場合は認定しなさいという表現だった。当時、日本では公害問題が大きな社会問題になっていた。 水俣病認定基準次官通知について、『熊日』では、大きなミスではないが意訳をした原文は「否定できない場合は認定」を「疑わしきは、認定」という見出しにした。この主旨は、刑事裁判の場合は疑わしきは被告人の原理という精神だった。しかし、水俣病に敵対、疑問を持つ人たちには、どうして疑わしい人が認定されるのかという世論、読まれる側面もあったと思う。 今とても反省して、今書くときは否定できないなら認定としている。


歴史的判決の日、当時の人々、私を含めバンザイという雰囲気ではなかった。新聞では「その時Vサインなし 水俣病は終らない」という見出しだった。歴史的判決をどう報道するか知恵を出し、当時小児性水俣病患者松永くみ子さん、22歳「生ける人形」と言われた人を載せた。この日も十数年と同じように何一つ変わることなくベッドに横たわっているという記事。水俣病の現実をそのまま伝えようという姿勢だった。

判決は地殻変動を起こしたといっていいほど大きな影響を与えた。

その中で起きたのが第三水俣病問題だ。1973年3月に第一次訴訟の判決があり、5月に熊大の研究班が、有明町に水俣病によく似た人たちがいるという報告書を出した。全国が水銀パニックになった。実際、全国に水銀を排出する工場がベースにあった。そして、マスコミの特ダネ競争に火がついた。患者を探して回った。先輩たちもにわか医者になって探していた。

漁貝類に含まれる水銀がどれくらいだと安全なのかということで、国は水銀の暫定規制値を作る。ずるいのは暫定としながら、これが今日も続いていることだ。類似患者に対して現時点では白、といつまでも放置している。

第三水俣病をどう総括するかは非常にむずかしい。医学のあり方がよかったのかどうか、第三水俣病に絶えうるような研究の中身なのか、否定するだけの根拠があるのか。これ以降という事はないかもしれないが、患者と対立、患者から否定されていくという存在に熊大はなっていく。そして水俣病の研究をする事が非常に息苦しくなっていく。みんながしなくなる。負の循環に陥っていくきっかけになった気がする。 しかし、成果として患者がいないと言われた御所の浦で患者を発掘する。昭和35年で水俣病の発生は終ったのを実証的に否定するなど大きな成果を上げている。

一番問われたのはマスコミだと思う。患者探し自体は悪いことではないと思う。しかし、どれだけ患者をフォローしたかだ。特ダネ競争はあるべきだと思う。真実を追求したいという欲求は大事だと思う。その思いが、ロッキード事件、鈴木宗男などの真実が明るみになったと思う。それと同時に、粘り強くその問題の本質は何かを検証することがなければならない。

今も、『熊日』はハンセン病のことを掲載している。忘れられていく時に考える素材を与えていくのがこれからのマスコミの一つの役割だと考えている。『熊日』でハンセン病の連載をするきっかけは、判決が出た時に昭和30年頃、国・政治の責任と、その頃のマスコミが何をしていたか。当時の記事を調べると他人事ではなく、綺麗な顔をしていられる場合ではないという反省があった。 もう一度自分たちにとってハンセン病はなんだったか検証してみようという事で始めた。自分のマイナスを含めて検証していくことで意味があると思う。負の遺産をどう生かしていくかを問われていると思う。


1973年。判決をもとに補償協定のルールができる。判決がベースとなって年金、医療費などが支払われる。ところが一時金には、物価スライド制がなかった。当時と今では、価値が違う。1200〜1600万円は10年前で3000万円くらいではないだろうか。

この1600万円という数字が水俣病問題全体を覆っていく。一番大きいのは、チッソに資金がない。だから熊本県が県債で援助する。水俣病の場合は、被害者より加害者を救うことから始まるといういびつな構造になってしまう。そうすると、チッソに払う金がない、どこまで広がるんだ。どうするか。申請者を認定しないようにしようと誰かが公式に言ったのではない。 審査会の会長をされていた荒木先生がある雑誌に「補償金のことが念頭にあった。」と、丸めて言うと書いていた。それがいろんなところに影響している。象徴として、ニセ患者発言がある。イヤな言葉だ。こんな言葉が堂々と公式の陳情に出てきた。 

1975年8月。県議会のメンバーが環境庁に陳情に行った際、ニセ患者発言があった。これを聞いていたどこのマスコミも取り上げなかったが、『熊日』では掲載した。裁判になり、県議会のメンバーは全面否定したが、『熊日』は報道の正しさを実証することも含めて原告側の立場で裁判に補助参加した。熊日がある一つの立場の者に加担した初めてのことだった。結局、患者側が勝訴し、県は謝罪広告を『熊日』に載せた。 この判決の日なぜ補助参加したかについて当時報道部長の名前で「補助参加について1つは記事の真実性の実証だが、問題の対応が、水俣病の真の解決を遅らせるだけでなく政治・行政の不信を更に深める結果にしかならないということを、公害の原点水俣病を生んだ熊本県の地元紙として広く訴える責任があると考えた。」これが、基本的に今も続く『熊日』の報道姿勢だと思う。




地元紙の視点とは何か?

地元マスメディアとしての経験を熱っぽく語る高峰さん

新聞には、全国紙、ブロック紙、地方紙がある。事実を伝える意味では、基本的に同じだと思う。何が違うか。発行エリア、規模もあるが、自分の体験から言うと記者の記事の視点が違う気がする。たとえば水俣病刑事事件だ。1976年5月チッソの刑事責任が20年たって起訴された。 これは、時効が成立しているものを、胎児性水俣病患者が死んだ日を時効として、出発点と関連的校合(きょうごう)として時効以内であるとされた裁判となった。その時全国紙では「画期的起訴」となっている。これは、司法全体の目から見て書かれていた。『熊日』では「遅すぎた起訴」と水俣病事件の眼から見た記事となっている。大きく違ったものとなっている。




水俣病を通して見えるもの


私たちが勉強する中、水俣病を通すといろいろな問題の輪郭がくっきり浮かび上がることがある。日本の官僚制、国ってものが何なのかを考える時のいい例がIPCS。官僚は国内でしか通じない話・理屈をしている。日本にはIPCSに反論しようにも国際的に通用する論文がない。 結局日本が、認定制度、水俣病かどうか1600万円の患者にあたるかどうかということを医学界が延々とやってきた。外国でやられているようにもっと低い濃度でお腹のこどもが大丈夫なんだろうかという意識は、皆無とは言わないが、まともな研究はほとんどされていない。

水俣の悲劇が役立っていないという二重の被害。真摯な反省がないところに深い教訓など生まれようがない。そういう行政の姿は、その後の薬害エイズ、肝炎問題など多い。そういう構造は、誰が本当の水俣病事件の反省をしたのか問われなければならないと思う。それは、企業も同じだと思う。 チッソ性善説。チッソだけでなく私たちの社会、行政、マスコミの根っこにあると思う。その、共通の言葉が“あの時は仕方なかった”にあると思う。高度成長期に言われていたのに“日本は、政治は三流だが、経済は一流”とずっと言われてきた。どうも政治も三流だが経済も三流だったのではないかという気が今はする。

行政にしろ企業にしろいろいろなところで、水俣病の教訓は生かされていない気がする。その結果として、政府解決策[資料として『法学セミナー』を示す]が中途半端な解決であった。ここでもきちんと整理されていない。だから、問題として教訓としてきちんと残らない気がする。

政府解決策の問題は資料の『法学セミナー』に書いているので読んでいただきたい。


ごんずい(65号)』[資料として提示]に、私は関西訴訟についてこう書いた。

  • 象徴的だが、関西訴訟はやっとの思いで原告が勝訴したが、国は上告した。同じ日ハンセン病は勝訴し国は上告しなかった。これは日本の政治を象徴している気がする。
    水俣病は何が不幸か、今水俣病のことを考えている政治家がゼロに近いこと。

そして、視点を地方紙と全国紙に移して―
  • 『熊日』をずっと見てきたが、各社それぞれに反省している。朝日新聞内部調査研究で1つは事件が起きなければ報道しない。2つは水俣病のことは東京にはほとんど載っていない。東京で偉い学者が反論したことは載っている。共通の地域版を作ろうというふうに『朝日』は反省している。

  • 私たちにとって水俣病問題は、国際法という気がする。地方紙にとって水俣の鑢(やすり)にとがれながら、今後とも記録性、方向性、持続性などが問われているテーマ。結局、悩んだら現場に行く。現場には、そこに住む人と、風景がある。それをしっかり見ながら今後の仕事、報道をしていきたいと思う。
― と結んだ。







伝えたいことがたくさんあったのでしょう、終始早口であっという間の90分でした。

言葉の持つ恐ろしさ、活字の持つ重みをひしひしと感じる時間でした。

“あの時は仕方なかった”この言葉の持つ重み。普段何も考えずに使っているのではないだろうか。水俣病事件は、チッソ、国だけが起こした問題ではなく、個人一人一人の問題であることがはっきりしたような気がした。






◇          ★          ◇




《水俣学講義計画案(平成14年度)》
 
各日10:40−12:10

 

  月  日内           容担 当
1) 9月20日 なぜ水俣学か、本学で開講するわけ花田昌宣
(熊本学園大学教授)
 水俣病の歴史(1)水俣病の発見から原因究明まで原田正純
(熊本学園大学教授)
2) 9月27日 水俣病の歴史(2)胎児性水俣病の発見、新潟水俣病原田正純
(熊本学園大学教授)
3) 10月4日 チッソの企業体質と技術
  チッソ史
宇井 純
(沖縄大学教授)
4) 10月11日 チッソ労働者と水俣病
  公害病と職業病との関係
山下善寛
(元チッソ労働組合委員長)
5) 10月18日 水俣病を記録して
   1960年〜1997年
桑原史成
(報道写真家)
6) 10月25日 水俣病とマスコミ
   主に地元紙の視点から
高峰 武
(熊本日日新聞編集局次長)
7) 11月 8日 法創造に挑む水俣病
富樫貞夫
(志學館大学教授)
8) 11月15日 水俣病患者の闘い−公害と差別宮澤信雄
(フリージャーナリスト)
9) 11月22日 海の生態系と漁業佐藤正典
(鹿児島大学助教授)
10) 11月29日 被害者の想い
   闘いの日々
水俣病患者・家族
11) 12月 6日 世界に広がる水銀汚染
   水俣が持つ意味
原田正純
12) 12月13日 もやい直しとは
   患者の自立と水俣の再生
吉井正澄
(前水俣市長)
13) 1月10日 水俣学まとめ
   教訓をより確かなものに
原田正純


* 熊本学園大学社会福祉学部福祉環境学科
 
   〒862−8680 熊本市大江2−5−1 TEL 096−364−5162






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