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熊本学園大学「水俣学」レポ・第5回 水俣病事件に遭遇したのは写真家としては幸運 = 報道写真家・桑原史成さんが講義 = 福祉を志望する学生は自己犠牲でない継続できるエネルギーを |
熊本学園大学の「水俣学」の第5回講座は2002年10月18日午前10時40分から12時30分まで、報道写真家の桑原史成さんが教壇に立った。 水俣病に最初に取組んだプロのカメラマンとしての実績は「もし桑原さんが当時撮っていなかったら、水俣病事件の記録は文字しか残らなかっただろう」(原田正純さん)という不動のものだが、桑原さんの講義を聴講した田尻雅美さん(熊本学園大学大学院生)が寄稿してくれた。 【文:田尻雅美/写真:権藤眞由美】
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原田先生から講師の桑原史成さんが紹介される。
昭和35年当時原田先生が水俣を歩いて回っていた頃、すれ違いで「若い写真家が来ていたよ」と幾度となく聞いていたそうだ。同じ時期・時代に、「記録を残しておかなければならない」という同じ志を持っていたのだと思うと原田先生は言われる。そして、2人が出会ったのは、1989年ベトナムであったそうだ。
水俣に来た理由は、家が農家であったことから農業大学に所属していたが、大学3年の就職を控えた時、別の生き方がしたい、ジャーナリストとして写真をやりたいという思いをもち、夜間の写真専門学校に2年間通った。 卒業と同時に就職をする事は考えずに、フリーのカメラマンとして生きることを模索することを選択した。そして、写真家になるには、オリジナリティーの高い作品を作ることが必要と考えていた。 “テーマには器がある”テーマには背後に、汗と涙、政治、社会、経済が意味あるものだと考えていた。 実家に帰る時、駅まで送ってきてくれた友人の一人が差し入れてくれた『週間朝日』を車中で開き、そこに出ていた水俣病の記事を読んだ時に、「半年間捜し求めていたテーマがこれだ!」と直感した。この直感がなければ、今の自分はなかったと語る。 そして、熊本、水俣を訪れ写真を撮るようになった。紹介状が縁で熊大第一内科の当時助教授だった徳臣晴彦先生を尋ね、次の日学生を連れて水俣に調査に行くというので同行させてもらった。そして、やはり紹介状によって、当時水俣市立病院院長大橋登先生に出会うことが出来た。 しかし、大橋先生に「写真で一体何ができるのか!」と強い調子で言われた時、一瞬迷い、建前〈日本の問題・企業の問題など〉を言おうとしたが、言えずに、「写真家を目指して水俣に来た。写真家の登竜門をくぐれるのではないかと思う。」と正直な気持ちを伝えたとか。そのおかげで、病院内の撮影は彼が生存中はフリーパスになった。この時、大橋院長が熊本弁で「いいよ」と言った言葉が理解できなかったが、同席してくれた徳臣先生を見たら顔が笑っていたので“よい”という意味だと理解した。後年、大橋院長から「桑原さんが、本音を正直に言ったから同意した」と言われたとか。 この時代だから院長の許可だけで、患者・患者家族の同意なく撮れることが出来た。現代では、撮れない。当時は、撮られる側に認識が薄かったのと、喜ばれる時代でもあった。 ジャーナリストにとって20世紀と21世紀の違いは、20世紀はドキュメンタリー写真家にとって黄金の時代であった。それは、ドキュメンタリーがもてはやされた時代だったからだ。 しかし21世紀は違う。個人の権利、肖像権、プライバシーの問題などがあり、同意がなければ撮ることも、印刷することもできない。民主化の個人の権利が尊重される時代。同意を得ないで出すことは、確信犯であるとも話された。 今水俣では、風景写真が多い。患者さん、家族、明水園でカメラを向けることは、むずかしい。 そして写真とは何かという自分自身の問いに「写真とは記録である」、記録は2度と撮れないものである−と自信を持って話された。
偉大な人に会っていたとして、石牟礼道子さんを上げる。当時は気さくなお姉さんという感じで食事をしていた。そして、徳富3兄弟よりすごい人だと。
長く続ける行為は、しんどい。職場は忍の一字で奉仕。人に尽くす厳しさ、辛さ。一時的にはいいが、長く続けるには、エネルギーが必要で、厳しさ辛さを絶えぬく哲学、考え方をしっかり持つことが大切。自己犠牲ではないことによって、継続できるエネルギーを持てる。 桑原氏自身、水俣には40年かかわっているが、日々ではない。時々だから継続できるのだと。だからこそ、通いに徹したい。長くいると、生活が厳しいものになる。隣人との付き合い、イデオロギー的な様々なもの。お客さんは許されるが、住むのとは違ってくるのではないかと思う。
つかず離れず、少し距離があるほうが、お互いに礼儀を保てる。
介護の対象でない人に、ここによって違うが生き方、明日の夢、希望、喜びを示唆できるヒントを与えられることが大事だと思う。心のケアを示唆するような指導をして下さい、という。
歴史、社会を鋭く、冷たく見て展望を描けるようになると、世の中の推移がわかる。状況を読む、推測するの力が大事である。
◇ 最後に質問の時間を予定していたが、写真を見せることを忘れられていて、質問時間はカット。チッソ水俣工場、茂道、水俣湾、患者さんたち、病院内、漁師、安賃闘争、座りこみ、熊大実験室、家………あらゆる場面を撮られている110点もの写真を見せてくださった。 解説はほとんど入れられなかったが、写真から伝わるものを多くの学生が感じているようであった。 |
| 月 日 | 内 容 | 担 当 | |
| 1) | 9月20日 | なぜ水俣学か、本学で開講するわけ | 花田昌宣 (熊本学園大学教授) |
| 水俣病の歴史(1)水俣病の発見から原因究明まで | 原田正純 (熊本学園大学教授) |
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| 2) | 9月27日 | 水俣病の歴史(2)胎児性水俣病の発見、新潟水俣病 | 原田正純 (熊本学園大学教授) |
| 3) | 10月4日 | チッソの企業体質と技術 チッソ史 | 宇井 純 (沖縄大学教授) |
| 4) | 10月11日 | チッソ労働者と水俣病 公害病と職業病との関係 | 山下善寛 (元チッソ労働組合委員長) |
| 5) | 10月18日 | 水俣病を記録して 1960年〜1997年 | 桑原史成 (報道写真家) |
| 6) | 10月25日 | 水俣病とマスコミ 主に地元紙の視点から | 高峰 武 (熊本日日新聞編集局次長) |
| 7) | 11月 8日 | 法創造に挑む水俣病 | 富樫貞夫 (志學館大学教授) |
| 8) | 11月15日 | 水俣病患者の闘い−公害と差別 | 宮澤信雄 (フリージャーナリスト) |
| 9) | 11月22日 | 海の生態系と漁業 | 佐藤正典 (鹿児島大学助教授) |
| 10) | 11月29日 | 被害者の想い 闘いの日々 | 水俣病患者・家族 |
| 11) | 12月 6日 | 世界に広がる水銀汚染 水俣が持つ意味 | 原田正純 |
| 12) | 12月13日 | もやい直しとは 患者の自立と水俣の再生 | 吉井正澄 (前水俣市長) |
| 13) | 1月10日 | 水俣学まとめ 教訓をより確かなものに | 原田正純 |
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* 熊本学園大学社会福祉学部福祉環境学科
〒862−8680 熊本市大江2−5−1 TEL 096−364−5162 |
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