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熊本学園大学「水俣学」レポ・第4回

“公害は発生源で対応すればある程度の防止は可能だ”
 
チッソ労働者と水俣病
公害病と労働災害・職業病との関係

 
= 山下善寛・元チッソ労組委員長が講義 =



熊本学園大学の「水俣学」の第4回講座は2002年10月11日午前10時40分から12時10分まで、山下善寛・元チッソ労働組合委員長(現水俣せっけん工場代表)が教壇に立った。 30年にわたり組合をリードし、会社と闘ってきた足跡、水俣病の存在を知らなかった事を贖罪とする、第一期「水俣学」の講師陣では異色の存在の講義は聴講生の耳目を引きつけた。
【 司 加人 】





〈 水俣病発見年に入社した因縁 〉

冒頭、山下さんは個人史と水俣病問題との関わりを整理したものを資料配布したので、《さうすウェーブ》の独断で、この二つをミックスした。*紫色が水俣病との関わり。




昭和15年 9月18日:朝鮮咸鏡南道咸州郡興南邑九竜里にて出生
昭和31年 3月31日:水俣第一中学校卒業→4月1日:水俣高校(定時制)入学
*昭和31年 5月 1日:水俣病の公式発見日
昭和31年 5月21日:新日本窒素水俣工場・繊維試験課入社
*昭和32年 5月〜:水俣工場・特殊研究室に水俣奇病の研究組織設置
昭和34年 1月 1日:新日本窒素水俣工場技術部第2研究室勤務
昭和35年 8月 1日:同                分析研究室勤務
*昭和35年 8月〜:水俣奇病研究関連の仕事(熊本大学・県などへの試料提供など)
昭和37年 4月〜38年1月:安定賃金闘争→組合分裂、183日の長期闘争
昭和38年 2月 1日:施設第二部第5課勤務 → カーバイド課へ配転
昭和41年 3月12日:結婚 → 一男ニ女を得る
*昭和43年 1月12日:水俣病対策市民会議会員に。新日窒労組「恥宣言」
*昭和43年 3月18日:新潟水俣病裁判の現地調査に立会う
昭和43年 6月 7日:水俣支社・水俣工場技術課勤務
*昭和44年 9月7日:水俣病研究会発足(新日窒労組より4名参加)
昭和44年11月17日:家庭待機(6ヵ月間、賃金60%=第一組合73人、第二組合20人)
昭和45年11月16日:総務部勤労課付(仕事与えられず別室へ)
*昭和46年 5月26日:チッソ第42回株主総会へ患者・田中実子さんを背負って参加
*昭和46年 6月18日:荒木他3家族のチッソとの自主交渉を支援
*昭和48年 3月21日〜:水俣病訴訟判決後のチッソ本社交渉に参加
*昭和49年 3月13日:八木シズコ他4世帯6人の仮処分申請を支援
昭和49年 8月19日:水俣工場・技術部技術課勤務
*昭和56年2月:中国・吉林省へ(星野芳郎、原田正純氏らと)
平成 4年 6月 1日:水俣製造所品質保証部(検査担当)勤務
平成12年9月30日:チッソ退職(勤続44年6ヵ月)
平成12年〜14年4月:水俣病患者ほか障害者の働く「ほっとはうす」運営委員
*現在、水俣センター相思社幹事、本願の会会員




〈 私とチッソとの関係 〉

胎児性患者・田中実子ちゃんを背負ってチッソの株主総会に乗り込んだ山下さんの行動を大きく報道した新聞記事を背景に講演(右側シルエットが山下さん)
  • 以上の略歴でも分かるように、父親はチッソの社員であり、朝鮮工場に勤務中に出生した。したがって、チッソへの就職はなんの抵抗もなく、むしろ長男である以上必然的ですらあった。会社の将来も有望とされていた。

  • 慙愧に絶えないことだが、水俣病が発見された年に入社したわけだが、「水俣病」の存在は露ほども知らなかった。一生の恥であり、罪だと思っている。

  • その後、職場の研究者から原因物質の有機水銀を抽出したものを見せてもらったが、口外すれば懲戒解雇になるのでできなかった。

  • 昭和44年に裁判支援を目的に「水俣病事件研究会」が発足したが、労働組合からは当時の委員長の岡本達明以下私を含め4名が参加したが、偽名であった。 会合がある時は夜中に帰宅し、翌朝早く出勤するという繰り返しであった。

  • 私は、昭和53年から12年間、岡本から委員長のバトンを受けた。勤続44年6ヵ月のうち組合活動を30年行なった。個人史を見ていただくと分かるように、何回となく仕事を変えられ、閑職へと追いやられた。そういうことを平然とやる企業であった。



〈 水俣病と労働災害・職業病との関係 〉

  • 公害と工場内の労働災害、職業病との関係は密接不可分であり、同根だと思っている。

  • 環境問題は今や全世界的な問題だが、公害は発生源でそれなりの対応をしていれば、ある程度防ぐ事は可能だ。それは、工場内での労働災害、職業病がまず発生し、それが工場外の地域住民、市民への災害になり、公害化するという図式をとることが多いためである。

  • そこで、私は「水俣病の教訓」として、工場内の労働災害、職業病を労働者が十分に闘っていたら、水俣病(公害)を起こさないですんだのではないか。被害を最小限にとどめることができたにもかかわらず、労働災害や職業病と十分に闘わなかっただけでなく、初期の段階では、被害者の患者に敵対し、自分たち労働者の賃金引き上げや一時金闘争・労働条件の維持・向上のみに終始し、会社側に味方するなど“恥ずべき行為”を行なったことで、悲惨で世界に例をみない大きな事件・水俣病事件を起こしてしまった、と考えており、その集約が昭和43年の「恥宣言」であった。

  • [以下、チッソ安全衛生年報より抽出した「チッソにおける労働災害、職業病の実態」を数表化したものを説明]

  • 昭和25年以降36年までの統計を取り出しても、チッソにおける労働災害件数は多く、

  • とくに昭和27年から29年にかけては労働基準監督署などから指導を受けるほどだった。昭和30年には特別指定工場を解除されている。死亡は27年(1名)、32年(2人)、36年(7人)を記録している。

  • 結核患者も目立った。ダイキャストは粉塵の影響だ。昭和31年には276人、32年には267人、33年には251人と記録されており、32年度は63人が要休養者で、付属病院内で収容しきれず、他の病院にも収容してもらったほどだ。

  • 以上の結論としては、チッソとは“トップの技術水準だったが、トップの労働災害企業”であったと言える。



〈 労働災害、職業病と公害への取組み 〉

  • 取り組みについては、水俣病裁判への水俣工場第一組合労働者の証言、塩ビモノマーガスによる塩ビ病への取組み、従業員の健康調査、過労死についての取組みを上げたい。

  • チッソの労働者は労働災害の被害者であるとともに、水俣病の患者でもあった。しかし、労災の認定も水俣病患者の認定も受けられなかった人が多い。

  • 昭和47年3月16,17日、水俣病裁判において8人の労働者が証言した。過去の公害闘争において、患者家族と共闘して当該工場の労働者が証言するという事例はなかった。そのためには、資本からの労働者の独立が必要であるとともに、その労働者の証言は必然的に労働者が自らを告発する仕事となる。

  • 私の素人目からしても、昭和49年以降、塩ビモノマーガスの発生が公表されて以来、ガスを吸ってしまった労働者は水俣病と両方あるのではないかと思われた。

  • 熊本大や名古屋大学の協力を得て検査し、その中で現職者・死亡者10例を労働災害認定を求める申請を昭和52年にしたが、全て不支給となった。

  • 昭和60年7月から61年9月末まで、合化労連と医師団の協力を得て新日窒労組と退職組合で健康実態調査を行なった。調査結果は一次アンケート調査回収533人、医師の診察を受けた人270人で、「何らかの健康障害が認められた人は現職者71.1%、退職者91.7%という高率であった。

  • 平成に入り元年、2年と過労死と思われる従業員が労災認定の申請を行なったが、不支給となり、却下された。熊大(当時)の原田正純先生を講師に学習会も行なった。

  • 過労死と思われる人は昭和61年から平成元年まで4人いたが、2人は申請却下、2人は申請せずの結果となった。

  • チッソ五井工場(千葉県)でポリプロピレン事故が昭和48年にあったが、会社はその責任を労働者に転嫁した事例もあった。

  • これらを含めて、チッソという企業の体質、労働者の位置付けが理解いただけよう。



〈 今後の問題点 〉

  • 95年の“政治決着”で水俣事件はすべて解決したと思っている人は多いだろうが、全部どころか今なお多くの問題点が残っている。むしろ、新たな問題点さえ起きている。

    すなわち―
     

    1. 患者の死亡による働き手の喪失や胎児性患者も45、6歳になり、身体が衰えてきている。介護してきた家族も親が老齢化している。
       
    2. 不況の長期化により町全体が衰退しているが、水俣はとくにひどいのではないか。
       
    3. 労働者側でも体力の衰えとこれまで無理して働いた結果、後遺症の症状が出ており、二重三重の被害になっている。
       
    4. 高齢者が高齢者を介護するような構造になってきた。

  • このような諸問題は全容が解明されないまま現実にはなくなっていく患者や労働者が多い。耐えるだけではダメだ。どのような状況でも諦めず、未来に向って努力する姿勢が必要と考える。そのためには若いみなさんの力をかしてほしい。

  • 水俣から発信した「日本の縮図・水俣」は政治・経済・福祉の全ての面で凝縮している。原田正純先生等から学んだ「竹の子熟」も大変勉強になった。しかし、今回の「水俣学」に期待したい。

  • 学生諸君にはぜひ“自分にとっての水俣”を見つけて欲しい、ということを本日の結語にしたい。

    [注=資料の末尾に、山下さんが整理した「関係年表」が添付されたが省略する]





◇                 ◇




講義を終わって、山下善寛さんは《さうすウェーブ》のインタビューに次のように答えてくれた。



▼ 山下善寛さんに講義直後に聞く
「贖罪」の意識は死ぬまで持ち続けるだろう
 
風化を防ぐ最大の対応は若い人への継承だ




―― 講義という形では3度目ということですが。きょうまでどんな心境で準備され、今、講義を終わってどのような心境でしょう?

水俣病事件は自分の一生の贖罪として位置付けているという
( 山下 ) 過去2回は自分の経験を簡単にと言うか、軽い気持ちで話したのですが、こんどは「水俣学」という中で、チッソの元労働者として話せということで、荷が重いというか、これまでとは違う緊張感を持って準備もさせてもらいました。添付した年表 も自分なりに整理して、作成しましたが、とにかく素直に話ができたらいいなということを心がけました。まあ、ネタとしては山ほどありますが、限られた時間ですし、十分に意図したことが学生さんたちに伝わったかは気になるところです。

―― 山下さんの個人史をもう少し補足して欲しいのですが、最初に組合の役員になられたのはいつ頃だったのですか?

( 山下 ) 昭和45年です。自宅待機を受けてからです。変な話ですが、私は生来生真面目でして(笑い)、小学校以来無遅刻・無欠席でした。それだけが私の誇りなんですが、勉強もクソ真面目にした方だから、1日も早く社員の試験に合格しようと思っていましたので、組合活動にはあまり関心がなくて、むしろ勉強したいという方でした。ですあから、安賃闘争が終わった後、会社を辞めて大学へ行こうかと考えた時期もありましたが、慶応大学の通信教育を受けました。しかし、途中で結婚してしまいましたので卒業はしませんでした。したがって、組合活動は好きな人がやればいいのではと思っていたほどでした。

―― しかし、自宅待機で山下さんの考えも気持も一変した?

( 山下 ) 自宅待機者の中からも執行委員として頑張らねばいかんのではないかということで、他の人に推されて、それならしようかという感じで始めて、最初は組織部とか教宣部とかを担当し、水俣病の裁判が行なわれた頃は教宣部におりまして、東京と水俣を行き来しながら『安賃闘争』という本もまとめたりしました。

それで、しばらくは執行委員をしましたが、私の前の委員長の岡本(達明氏さん)や江口、松田の先輩の三役が体調が良くなくて、若い人に代われということになり、私たちに委員長をしないかという話があって、私たちは突っ張っていたんですが、それじゃあ世代交替ができないじゃないかと、盛んにやれと言われ、俺に務まるかどうか、とくにご存知のように前任の岡本は東大の法学部を出た人だし、随分躊躇したのですが、昭和53年から委員長を引き受けたというわけです。

―― そういう経過でしたが、結果は歴代委員長の中で最長の就任期間を記録しました。

( 山下 ) それは、たまたま書記長を務めた松崎が交通事故で亡くなったこともあったためでして、彼とは10年やったら辞めようと常々話していたんですが、亡くなってしまったので12年やる結果になってしまったんです(笑い)。もう、限界でしたね。月1〜2回は東京へ出たり、親の面倒も見ていましたし、正直なところ限界でしたね。

―― ご自身は水俣病にはならないですんだのですか?

( 山下 ) なりませんでしたが、組合の執行部になって、多発地区の担当として、しょっちゅう地域の患者さんのところに行っては、そのたんびに魚をたくさんご馳走になりましたし、他の人よりは水銀値は高いんじゃないかと思いますが、幸い岡本たちの健康状態を近くで見ていましたので、食べ物に気をつけ、運動をしたりして体調の維持に努めましたので幸い発症はしませんでした。因みに、連れ合いは隣りの津奈木の出身なんですが、小さい頃から学校から帰るとカキをとったりしていましたから、原田先生の診断を受けた時に「気があるんじゃないか」と言われた事がありましたよ。表に出なかったものの、水俣の人は多かれ少なかれ水俣病に近い状態ですよ。

―― ところで、山下さんはこれまで常に「贖罪」という2文字を口にされています。また、社員時代から患者さんの支援活動などもされていました。これは、会社側から見れば社則違反というか裏切り行為ですよね。また、一般論で言えば、水俣病の責任は会社にあるわけですね。にもかかわらず、改めてその辺を伺いたいのですが。

( 山下 ) それは、私はチッソに入社以来、水俣病の原因を知ることができる職場にいたわけです。しかし、それを口外したら解雇されるということから、言えなかったという思いが強く残っているんですね。“私にもっと勇気があったら”という言葉がありますが、私もそういうことをつくづく思っており、今でもそのことをきちっと話さなければいかんのじゃないかと思っているわけです。他の従業員より責任が重いんだと。だから、水俣病事件研究会などでも「私は殺人企業にいた……」というような言葉を吐いてしまうんです。

―― その思いは、多分、山下さんの中では一生、死ぬまで持っていることになるのでしょうか?

( 山下 ) そうですね。そういう思いから、水俣でお地蔵さんを彫っていますが、最初に彫ったのは、背中に背負ってチッソの株主総会に行った田中実子ちゃんを一生忘れないぞという意味を込めて彫ったんです。

―― そう言えば、もう何体彫りましたか。

( 山下 ) 3体です。今、4体目に挑戦しています。自ら命を絶った荒木康子さんを偲んで彫り始めました。

―― 戻りますが、組合としては異例の「恥宣言」をされたわけですが、当時様々な議論がなされたと思うのですが……。

( 山下 ) 私が執行部に入る2年前のことでしたので、私がその場にいたわけではありませんでしたが、ご指摘のように、そこまですることはないじゃないか、という意見もかなりあったそうです。 しかし、岡本なんかがそれじゃいけないんだと説得して、あの文章ができたと聞いています。ただ、岡本に聞いたのは、恥宣言の引き金になったのは、今、ほたるの家の活動をしている松本勉さんの「組合はなんもせんのか」という一言だったそうです。 いずれにしても、当時の組合は合理化とか賃上げとか、いろいろある中で従業員の意識というのは、水俣病患者を支援するというのは自分のめし茶わんを叩き落すとことになるんじゃないかという議論も片一方であったわけで、随分苦労されたと思いますね。

―― 最後に、山下さんにとって、水俣病問題というのはどういう位置付けなんでしょう? もちろん、まだ終わっていないということだとは思うんですが……。

( 山下 ) 私にとっては、安定賃金と同じように水俣病問題というのは大きなウェートを占めています。したがって、水俣病の中から学ぶものがたくさんなありましたし、なおあります。どうしても組織労働者の限界というものがありますが、それを患者さんたちから随分学ばしていただきました。

―― 突飛なことを伺うようですが、山下さんが死に直面した時、どういう言葉を吐かれるとご自分では思いますか?

( 山下 ) 書記長をしていた松崎が事故で死ぬ時、末期の言葉として「水俣病患者に勝たせなければいけない」と言ったそうです。 私もそういうことが言えたらと思っています。できれば、胎児性患者の人たちに、こういうところができなかったから頼むよ、とかが言えたらいいなと思っています(笑い)。
学生たちに正しく理解して欲しいという山下善寛さん

―― 最後に、この40年という歳月は物事をどうしても風化させてしまいます。そういう意味で、山下さんたちの支援運動も次世代というか、引き継ぐ人が必要と思いますがいかがですか? 今日の講義の結びで強調されましたが……。

( 山下 ) その通りですね。若い人たちが「水俣病問題」を今の問題として捉え、勉強してほしいなと思っています。昔、市民会議の中にヤング市民会議というのを作って、学校へビラ入れに行きました。そうしたら、学校側は警察に通報して、警察を呼ぶんですね。そういう状況を思い出しますが、今は逆に話しに来てくれというように変りました。とにかく運動というのは若い人たちに引き継がれなくてはいけません。そういう意味で、若い人たちに大いに期待してやみません。

―― ありがとうございました。良い石けんを作り、石像も4体目が無事彫り上がることを祈ります。






◇          ★          ◇




《水俣学講義計画案(平成14年度)》
 
各日10:40−12:10

 

  月  日内           容担 当
1) 9月20日 なぜ水俣学か、本学で開講するわけ花田昌宣
(熊本学園大学教授)
 水俣病の歴史(1)水俣病の発見から原因究明まで原田正純
(熊本学園大学教授)
2) 9月27日 水俣病の歴史(2)胎児性水俣病の発見、新潟水俣病原田正純
(熊本学園大学教授)
3) 10月4日 チッソの企業体質と技術
  チッソ史
宇井 純
(沖縄大学教授)
4) 10月11日 チッソ労働者と水俣病
  公害病と職業病との関係
山下善寛
(元チッソ労働組合委員長)
5) 10月18日 水俣病を記録して
   1960年〜1997年
桑原史成
(報道写真家)
6) 10月25日 水俣病とマスコミ
   主に地元紙の視点から
高峰 武
(熊本日日新聞編集局次長)
7) 11月 8日 法創造に挑む水俣病
富樫貞夫
(志學館大学教授)
8) 11月15日 水俣病患者の闘い−公害と差別宮澤信雄
(フリージャーナリスト)
9) 11月22日 海の生態系と漁業佐藤正典
(鹿児島大学助教授)
10) 11月29日 被害者の想い
   闘いの日々
水俣病患者・家族
11) 12月 6日 世界に広がる水銀汚染
   水俣が持つ意味
原田正純
12) 12月13日 もやい直しとは
   患者の自立と水俣の再生
吉井正澄
(前水俣市長)
13) 1月10日 水俣学まとめ
   教訓をより確かなものに
原田正純


* 熊本学園大学社会福祉学部福祉環境学科
 
   〒862−8680 熊本市大江2−5−1 TEL 096−364−5162






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