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熊本学園大学「水俣学」レポ・第4回 “公害は発生源で対応すればある程度の防止は可能だ” チッソ労働者と水俣病 公害病と労働災害・職業病との関係 = 山下善寛・元チッソ労組委員長が講義 = |
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熊本学園大学の「水俣学」の第4回講座は2002年10月11日午前10時40分から12時10分まで、山下善寛・元チッソ労働組合委員長(現水俣せっけん工場代表)が教壇に立った。
30年にわたり組合をリードし、会社と闘ってきた足跡、水俣病の存在を知らなかった事を贖罪とする、第一期「水俣学」の講師陣では異色の存在の講義は聴講生の耳目を引きつけた。
【 司 加人 】
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〈 水俣病発見年に入社した因縁 〉
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冒頭、山下さんは個人史と水俣病問題との関わりを整理したものを資料配布したので、《さうすウェーブ》の独断で、この二つをミックスした。*紫色が水俣病との関わり。
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〈 私とチッソとの関係 〉
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〈 水俣病と労働災害・職業病との関係 〉
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〈 労働災害、職業病と公害への取組み 〉
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〈 今後の問題点 〉
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講義を終わって、山下善寛さんは《さうすウェーブ》のインタビューに次のように答えてくれた。
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「贖罪」の意識は死ぬまで持ち続けるだろう
風化を防ぐ最大の対応は若い人への継承だ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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―― 講義という形では3度目ということですが。きょうまでどんな心境で準備され、今、講義を終わってどのような心境でしょう?
―― 山下さんの個人史をもう少し補足して欲しいのですが、最初に組合の役員になられたのはいつ頃だったのですか? ( 山下 ) 昭和45年です。自宅待機を受けてからです。変な話ですが、私は生来生真面目でして(笑い)、小学校以来無遅刻・無欠席でした。それだけが私の誇りなんですが、勉強もクソ真面目にした方だから、1日も早く社員の試験に合格しようと思っていましたので、組合活動にはあまり関心がなくて、むしろ勉強したいという方でした。ですあから、安賃闘争が終わった後、会社を辞めて大学へ行こうかと考えた時期もありましたが、慶応大学の通信教育を受けました。しかし、途中で結婚してしまいましたので卒業はしませんでした。したがって、組合活動は好きな人がやればいいのではと思っていたほどでした。 ―― しかし、自宅待機で山下さんの考えも気持も一変した? ( 山下 ) 自宅待機者の中からも執行委員として頑張らねばいかんのではないかということで、他の人に推されて、それならしようかという感じで始めて、最初は組織部とか教宣部とかを担当し、水俣病の裁判が行なわれた頃は教宣部におりまして、東京と水俣を行き来しながら『安賃闘争』という本もまとめたりしました。 それで、しばらくは執行委員をしましたが、私の前の委員長の岡本(達明氏さん)や江口、松田の先輩の三役が体調が良くなくて、若い人に代われということになり、私たちに委員長をしないかという話があって、私たちは突っ張っていたんですが、それじゃあ世代交替ができないじゃないかと、盛んにやれと言われ、俺に務まるかどうか、とくにご存知のように前任の岡本は東大の法学部を出た人だし、随分躊躇したのですが、昭和53年から委員長を引き受けたというわけです。 ―― そういう経過でしたが、結果は歴代委員長の中で最長の就任期間を記録しました。 ( 山下 ) それは、たまたま書記長を務めた松崎が交通事故で亡くなったこともあったためでして、彼とは10年やったら辞めようと常々話していたんですが、亡くなってしまったので12年やる結果になってしまったんです(笑い)。もう、限界でしたね。月1〜2回は東京へ出たり、親の面倒も見ていましたし、正直なところ限界でしたね。 ―― ご自身は水俣病にはならないですんだのですか? ( 山下 ) なりませんでしたが、組合の執行部になって、多発地区の担当として、しょっちゅう地域の患者さんのところに行っては、そのたんびに魚をたくさんご馳走になりましたし、他の人よりは水銀値は高いんじゃないかと思いますが、幸い岡本たちの健康状態を近くで見ていましたので、食べ物に気をつけ、運動をしたりして体調の維持に努めましたので幸い発症はしませんでした。因みに、連れ合いは隣りの津奈木の出身なんですが、小さい頃から学校から帰るとカキをとったりしていましたから、原田先生の診断を受けた時に「気があるんじゃないか」と言われた事がありましたよ。表に出なかったものの、水俣の人は多かれ少なかれ水俣病に近い状態ですよ。 ―― ところで、山下さんはこれまで常に「贖罪」という2文字を口にされています。また、社員時代から患者さんの支援活動などもされていました。これは、会社側から見れば社則違反というか裏切り行為ですよね。また、一般論で言えば、水俣病の責任は会社にあるわけですね。にもかかわらず、改めてその辺を伺いたいのですが。 ( 山下 ) それは、私はチッソに入社以来、水俣病の原因を知ることができる職場にいたわけです。しかし、それを口外したら解雇されるということから、言えなかったという思いが強く残っているんですね。“私にもっと勇気があったら”という言葉がありますが、私もそういうことをつくづく思っており、今でもそのことをきちっと話さなければいかんのじゃないかと思っているわけです。他の従業員より責任が重いんだと。だから、水俣病事件研究会などでも「私は殺人企業にいた……」というような言葉を吐いてしまうんです。 ―― その思いは、多分、山下さんの中では一生、死ぬまで持っていることになるのでしょうか? ( 山下 ) そうですね。そういう思いから、水俣でお地蔵さんを彫っていますが、最初に彫ったのは、背中に背負ってチッソの株主総会に行った田中実子ちゃんを一生忘れないぞという意味を込めて彫ったんです。 ―― そう言えば、もう何体彫りましたか。 ( 山下 ) 3体です。今、4体目に挑戦しています。自ら命を絶った荒木康子さんを偲んで彫り始めました。 ―― 戻りますが、組合としては異例の「恥宣言」をされたわけですが、当時様々な議論がなされたと思うのですが……。 ( 山下 ) 私が執行部に入る2年前のことでしたので、私がその場にいたわけではありませんでしたが、ご指摘のように、そこまですることはないじゃないか、という意見もかなりあったそうです。 しかし、岡本なんかがそれじゃいけないんだと説得して、あの文章ができたと聞いています。ただ、岡本に聞いたのは、恥宣言の引き金になったのは、今、ほたるの家の活動をしている松本勉さんの「組合はなんもせんのか」という一言だったそうです。 いずれにしても、当時の組合は合理化とか賃上げとか、いろいろある中で従業員の意識というのは、水俣病患者を支援するというのは自分のめし茶わんを叩き落すとことになるんじゃないかという議論も片一方であったわけで、随分苦労されたと思いますね。 ―― 最後に、山下さんにとって、水俣病問題というのはどういう位置付けなんでしょう? もちろん、まだ終わっていないということだとは思うんですが……。 ( 山下 ) 私にとっては、安定賃金と同じように水俣病問題というのは大きなウェートを占めています。したがって、水俣病の中から学ぶものがたくさんなありましたし、なおあります。どうしても組織労働者の限界というものがありますが、それを患者さんたちから随分学ばしていただきました。 ―― 突飛なことを伺うようですが、山下さんが死に直面した時、どういう言葉を吐かれるとご自分では思いますか? ( 山下 ) 書記長をしていた松崎が事故で死ぬ時、末期の言葉として「水俣病患者に勝たせなければいけない」と言ったそうです。 私もそういうことが言えたらと思っています。できれば、胎児性患者の人たちに、こういうところができなかったから頼むよ、とかが言えたらいいなと思っています(笑い)。
―― 最後に、この40年という歳月は物事をどうしても風化させてしまいます。そういう意味で、山下さんたちの支援運動も次世代というか、引き継ぐ人が必要と思いますがいかがですか? 今日の講義の結びで強調されましたが……。 ( 山下 ) その通りですね。若い人たちが「水俣病問題」を今の問題として捉え、勉強してほしいなと思っています。昔、市民会議の中にヤング市民会議というのを作って、学校へビラ入れに行きました。そうしたら、学校側は警察に通報して、警察を呼ぶんですね。そういう状況を思い出しますが、今は逆に話しに来てくれというように変りました。とにかく運動というのは若い人たちに引き継がれなくてはいけません。そういう意味で、若い人たちに大いに期待してやみません。
―― ありがとうございました。良い石けんを作り、石像も4体目が無事彫り上がることを祈ります。
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| 月 日 | 内 容 | 担 当 | |
| 1) | 9月20日 | なぜ水俣学か、本学で開講するわけ | 花田昌宣 (熊本学園大学教授) |
| 水俣病の歴史(1)水俣病の発見から原因究明まで | 原田正純 (熊本学園大学教授) |
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| 2) | 9月27日 | 水俣病の歴史(2)胎児性水俣病の発見、新潟水俣病 | 原田正純 (熊本学園大学教授) |
| 3) | 10月4日 | チッソの企業体質と技術 チッソ史 | 宇井 純 (沖縄大学教授) |
| 4) | 10月11日 | チッソ労働者と水俣病 公害病と職業病との関係 | 山下善寛 (元チッソ労働組合委員長) |
| 5) | 10月18日 | 水俣病を記録して 1960年〜1997年 | 桑原史成 (報道写真家) |
| 6) | 10月25日 | 水俣病とマスコミ 主に地元紙の視点から | 高峰 武 (熊本日日新聞編集局次長) |
| 7) | 11月 8日 | 法創造に挑む水俣病 | 富樫貞夫 (志學館大学教授) |
| 8) | 11月15日 | 水俣病患者の闘い−公害と差別 | 宮澤信雄 (フリージャーナリスト) |
| 9) | 11月22日 | 海の生態系と漁業 | 佐藤正典 (鹿児島大学助教授) |
| 10) | 11月29日 | 被害者の想い 闘いの日々 | 水俣病患者・家族 |
| 11) | 12月 6日 | 世界に広がる水銀汚染 水俣が持つ意味 | 原田正純 |
| 12) | 12月13日 | もやい直しとは 患者の自立と水俣の再生 | 吉井正澄 (前水俣市長) |
| 13) | 1月10日 | 水俣学まとめ 教訓をより確かなものに | 原田正純 |
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* 熊本学園大学社会福祉学部福祉環境学科
〒862−8680 熊本市大江2−5−1 TEL 096−364−5162 |
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