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熊本学園大学「水俣学」レポ・第3回

= 熊本学園大学「水俣学」各論段階へ =
“チッソは最高の技術水準を確立したが、社会倫理は最低だった”
 
第3回は宇井純・沖縄大学教授が「チッソ史」を講義




熊本学園大学の「水俣学」は第1回、2回の序論・総説から3回目になって、外部専門家による各論講義に入った。3回目は、2002年10月4日午前10時40分から予定時間を超えて12時20分近くまで、宇井純・沖縄大学法経学部教授が「チッソ史−チッソの企業体質と技術」と題する講義を行った。

宇井教授はいまさら紹介の必要がないほど公害研究、とりわけ水俣病事件の先駆的研究者としてすでに40年の実績を重ねており、水俣病の原因企業のチッソ研究についても造詣が深い。

この日の講義概要は次の通り。

【文責=司 加人】





水力発電に着目した創設者と企業誘致に動いた地元の利害が一致


  • チッソという企業の歴史を語る事は、日本の化学工業の歴史を語る事につながる。チッソはそういう重さを持っていたと言って良い。

  • 創設者の野口遵(のぐち・したがう)は当時の東京帝国大学を卒業すると、直ちに卒業論文を実行に移した数少ない学生の一人だった。彼は、水力発電の効果に目をつけた。ちなみに、日本で最初に水力発電を導入し、成功したのは鉱山で、仙台における電気化学によるカーバイドの生産だった。野口は、それを大口金山(鹿児島県)に利用し、目覚しい効果を上げた。

  • 当時の水俣は小さな貧しい漁村だった。特産品は塩とハゼを原料に作るロウソクだったが、いずれも衰退過程にあった。このため、今で言う企業誘致を地元は行い、有利な条件でチッソの誘致に成功した。後に、1970年代に日本中で起こる産業・企業誘致運動のまさに走りと言って良い。

  • しかし、事業はそう簡単にはいかず、一時は工場を人手に渡したが、またそれを借りて操業しているうちに第1次大戦が始まった。これによって、輸入は止まり、一転して息を吹き返した。なんと10割4分もの配当をした時期もあった。
    黒板いっぱいに化学式を書いてチッソの企業変遷を分かりやすく説明した講義だった

  • その勢いで、野口は技術者を連れてヨーロッパへ行き、そこでまだ完成したとは言えないアンモニア空中合成技術に出会い、着目した。アセチレンに水銀触媒を使ってアセトアルデヒドを製造するというプロセスであった。言い換えれば、この時点でそれまで無機化学工業を生業としていたチッソは有機化学工業へ進出したことになる。
    【製造品目の化学式を示し、チッソの事業拡大・変遷を説明する。省略】

  • 一方、国内の化学産業は旧三井、三菱、住友などのいわゆる財閥グループによって寡占され、新興のチッソとしては必然的に新天地を海外に求めなければならなかった。当時の朝鮮・満州に目をつけ、ほぼ独力で進出した。



敗戦で引き揚げた技術者たちが独自製品を開発、受けに入る


  • そして、歴史が証明しているように、戦争は破壊もするが、新しい技術やものを産み出した。人造石油と塩化ビニルだ。しかし、周知のように日本は戦争に破れ、大手企業はGHQにより解体される。

  • かくして、チッソは戦後、もう1回ドン底から立ち上がることになる。朝鮮から技術者たちが水俣に続々と引き揚げてきて、生産再開に結集する。オクチルアルコールから(可塑剤原料の)DOPを製造するプロセスを完成した。高度な技術であり、チッソしかできなかった。それ故、「水俣」で作られるものは作れば売れる時代が続き、生産規模は拡大の一途をたどった。そういう過程が「水俣病」という原因を形成していった。



東大応用化学のトップしか入社試験受けさせなかったチッソ


  • ところで、チッソは東大の応用化学のもっとも成績の良い学生しか入社試験を受けられなかった。仮に受けても入社出来るという保証はなかった。技術系教授や学生から“もっとも素晴らしい会社”と位置付けられた。そういう歴史であった。

  • 率直に言って、チッソの化学技術水準は自慢しても良いものであった。それだけに、いつしか傲慢になり、自社が犯したことに責任が取れない企業になってしまった。

  • その頃、私自身は(チッソに入れる成績でなかったので)新興で外国の技術を導入して塩ビを作り始めた日本ゼオンという企業に入り、富山の高岡工場で工場の建設段階からタッチし、塩ビの製造を開始することに立ち会えた。その過程で、深夜ひそかに水銀廃液を川に流すことをやった。おそらくトータルで50キロは流したであろう。したがって、この水銀廃液が魚に影響をもたらすことを知っていた。

  • 一方、チッソは1959年には(水俣病と言われる前の奇病の原因が)「水銀」にあるということを突き止めていた。そこに至るには細川一(ほそかわ・はじめ)さんという、東大医学部を出て、チッソ付属病院長に迎えられた医師による努力が大きかった。

  • 話が飛ぶが、東大で自主講座を行なっている中で、川本輝夫さんに来てもらったことがある。その日、彼に「東大の門をくぐる時、どんな感じがしたか?」と聞いたら、彼は「恐かった」と話した。その意味は、東大というところは(水俣病に)幾重にも絡んでいる。 もみ消しに加担し、自分が東大に入ったら東大での官憲に捕まり、捕まれば東大での裁判官に裁かれるのではないか―と連鎖的に思ったからだと言う。実に、そこで仕事をしていた私にとって強烈な皮肉に聞こえた(笑い)。



技術者の真の責任はマイナス面を直視することだ


最後は技術者の責任で締めくくった宇井純さん

  • 21世紀。こんなインチキな企業や大学が存在していてよいのか! 68年に著した『公害の政治学』で指摘したことは、ある点では実現したが、大きな代償を支払わされた面も多い。とりわけ、水俣病患者の多くの人は、自分がどうして死ぬのかを知らないで死んでいったのだ。

  • 今、改めて思う。技術者は、ただモノを作るだけでなく、それによってもたらされるマイナス面を直視しなければいけないと。それが真の“技術者の責任”だと。






◇          ★          ◇




= 宇井教授、前夜は院生の講座で講義・意見交換も =


宇井さん(後ろ向き左側、その右原田さん)の体験談を交えた話は聴講者に感銘を与えた

「水俣学」の講義に先立ち、東京のある大学での講義をこなし、熊本入りした宇井純さんは10月3日夜、乞われて原田正純教授の大学院の講義でも話をし、院生たちとの質疑応答も行なった。

話は、水俣病問題やチッソ労働組合の取組みの変遷、さらには自らの水俣病の研究成果を伏せている間に、新潟水俣病が発生したことへの悔悟などの体験談、さらにはこれからの大学院や院生のあり方など広範囲に及んだ。






◇          ★          ◇




《水俣学講義計画案(平成14年度)》
 
各日10:40−12:10

 

  月  日内           容担 当
1) 9月20日 なぜ水俣学か、本学で開講するわけ花田昌宣
(熊本学園大学教授)
 水俣病の歴史(1)水俣病の発見から原因究明まで原田正純
(熊本学園大学教授)
2) 9月27日 水俣病の歴史(2)胎児性水俣病の発見、新潟水俣病原田正純
(熊本学園大学教授)
3) 10月4日 チッソの企業体質と技術
  チッソ史
宇井 純
(沖縄大学教授)
4) 10月11日 チッソ労働者と水俣病
  公害病と職業病との関係
山下善寛
(元チッソ労働組合委員長)
5) 10月18日 水俣病を記録して
   1960年〜1997年
桑原史成
(報道写真家)
6) 10月25日 水俣病とマスコミ
   主に地元紙の視点から
高峰 武
(熊本日日新聞編集局次長)
7) 11月 8日 法創造に挑む水俣病
富樫貞夫
(志學館大学教授)
8) 11月15日 水俣病患者の闘い−公害と差別宮澤信雄
(フリージャーナリスト)
9) 11月22日 海の生態系と漁業佐藤正典
(鹿児島大学助教授)
10) 11月29日 被害者の想い
   闘いの日々
水俣病患者・家族
11) 12月 6日 世界に広がる水銀汚染
   水俣が持つ意味
原田正純
12) 12月13日 もやい直しとは
   患者の自立と水俣の再生
吉井正澄
(前水俣市長)
13) 1月10日 水俣学まとめ
   教訓をより確かなものに
原田正純


* 熊本学園大学社会福祉学部福祉環境学科
 
   〒862−8680 熊本市大江2−5−1 TEL 096−364−5162






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