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「環境紛争処理北京WS」(4)

 コメント〈裏方を務めて〉


○初回の「成功」を結実させるために更なる踏み込みが必要○

 相川 泰 さん(東京大学大学院博士課程)


*ここ3年のいきさつ―
  • 企画当初からは3年、今回のWS準備のための訪中期間だけでも3ヵ月。WSを無事終え、いま東京に戻って、私なりに感慨一入のものがあります。

  • 思い起こせば、1998年9月に中国へ留学(中国人民大学、2000年8月まで)するため、北京へ着いたすぐ次の週明けのことです。すでにお名前を聞いていた 王燦発先生のところにアポイントも取らずに飛び込んだのが王先生との最初の出会いでした。その時は中国語をしばらく使っていなかったこともあって、どうも王先生には通じなかったようで(笑い)、とにかく中国にいるのならもう少し中国語を勉強してから出直せと言われてすごすごと引き下がったのが全ての始まりですから、 不思議なものです。

  • 今回、事務局をご一緒させていただいた大塚健司さんとは『アジア環境白書』作成のネットワークでお知り合いになったのですが、実は私の中国留学の初めの半年が大塚さんと重なっていまして、そういう時は大塚さんご自身でもいいから、 通訳できる人と一緒に行くべきだ、とアドバイスを受けました。王先生が次の機会を作ってくださったのが11月の下旬で、その時、大塚さんはお風邪で休んでいたのを、そうない機会だからと無理を言って、大塚さんの家のすぐ近く(と言っても当時は3人とも"ご近所さん"だったのですが)でお会いすることになりました。

  • その時、王先生から環境汚染被害者支援を巡る国際会議を開きたいというアイデアが熱っぽく語られ、私も大塚さんも 日本環境会議に繋げば実現するのではないかと思い、寺西先生(俊一氏。一橋大学大学院教授)にメールを入れました。寺西先生からは、中国からの積極的な提案に対し、具体的な実現の方法を模索するよう、好意的かつ前向きな答えが返ってきました。

  • 王先生の「公害被害者法律援助センター(CLAPV)」が、99年11月にホットラインによる法律相談をスタートさせて実質的な活動を開始してからは、自分の研究のためにその様子を観察しようと、週何回もセンターに通うようになりました。そのうち、日本との連絡や交流、日本語関係などでお手伝いすることも出てきました。当初は王先生直属の院生がいなかったこともあって、ほとんどセンターの一員のようになり、 留学終了まで、さらに今年1月の短期訪中時にも、生活面も含め王先生とセンターには相当お世話になりました。

  • その後の経過は大塚さんのコメントと重なりますので省略しますが、いよいよ実行準備ということになり、大塚さんの短期訪中に合わせ7月1日から北京入りしました。 3日に事前としては最後の日中双方が出席しての打ち合わせを行い、プログラムや、経費の大枠を決めました。

  • なお、この時期までWSの名称というかテーマを、日本側では環境被害者救済といっていたのに対し、中国側は公式名称としては環境紛争処理という言葉を使っていました。これについては淡路先生と寺西先生が関心の違いとして言及されていますが、むしろ中国側も、主催者の関心は近いものの、名称によって行政からストップをかけられることを回避するための方便として紛争処理を選んだという事情がありました。 中国で被害者救済を会議の名称に入れてしまうと、大衆扇動のような響きがあって、会議の開催自体が危うくなるのとのことでした。王先生のセンターの中国語正式名称(直訳すると環境資源法研究サービスセンター)と、通称および外国語正式名称(公害被害者法律援助センター)が異なっているのと同じです。私としては7月3日のプログラムの打ち合わせで、第5セッションの テーマがあまりに雑多になったときにそれをまとめる言葉として中国側から「環境汚染被害者の救済」が提案されたことに注目しました。 つまり、これは名称に関わらず中国側も基本的・最終的な関心は日本側と同じですよ、ということを示すシグナルだったのですね。 WSは北京で開くものですし、日本語名称だけ変えても漢字で書けば意味は分かりますから、混乱を避けるためにも正式名称としては中国側と同じ環境紛争処理を用いることにしたわけです。淡路先生・寺西先生のコメントからは、こうした事情や政治的背景、中国側提案の意義の重要性などを事前に十分には説明できていなかったことを痛感し、この機会に補足しておきたいと思います。

  • その他、7月の作業で大きかったのはみなさんへの招請状作りとか、会場を最終的に決めることなどでした。会場は最終的に友誼賓館になりましたが、下見に行って、真ん中に太い柱が4本並んでいるし、本当にここで良いのかなと悩みもしました。

  • 辛かったのは、8月10日締めで論文の集めに入ってからです。日本側は発言者も決まっている上、締め切りまでには大体集まっていたのに対し、中国側は論文を集めてから発言者を決めることになっていて、しかも締め切り時には重要な論文はほとんど来ていませんでした。中国では、集まった論文は発表するしないにかかわらずすべて収録するという習慣なので、ついては来たものから順にすべて翻訳してほしいと言われ、 限られた時間と労力の中で、重要かどうか分からないものを訳せないと、抵抗しました(笑い)。結局、最終的には発表する人の要旨に絞られましたが…。

  • このように、中国側からどのような話が出てくるか分からず、いつまでもプログラムが確定しないことには、日本側から心配の声が上がっていました。一方、中国側はプログラムより経費問題を心配していたのですが、これについては日本からなかなか明確な返答がありませんでした。それぞれの問題についての双方の温度差と、優先順位の違いで板ばさみの状態が8月いっぱい続きました。 また、初めのうちは、通訳の選定・依頼が、WS成否の鍵となると考えて訪中前後から手を打っていたのですが、これら他の懸案によって押せ押せになってしまいました。

  • 9月に入ってこれらが解決した頃になって、中国政法大学の学長以下上層部が入れ替わるので、予算が下りないかも知れないとか、一時肝を冷やすような話もありましたが、これは何事もなく、むしろその後は以前より順調になった気すらしました。あとは開幕直前まで、名札や名簿について、日本語と中国語ではかなり異なってしまう各自の名前の発音が一目で分かるような表示にできないかという、 もっともだけど無謀な要望が出されたのをはじめ、論文集や名簿等の印刷の際のハード的な問題、日本からの参加者が到着した時の空港への出迎えのやりくり、 同時多発テロでキャンセルされた米国航空会社の便に搭乗予定だった参加者の変更の把握など、頭で考えると大したことではなさそうなことに細かいところでつまづきがあって、時間と労力をとられました(笑い)。


*ワークショップが始まったら―
  • 大塚さんと打合わせをする相川さん(右)
    いざ開幕してからは、研究者の端くれとして、みなさんの報告はちゃんと聞けるだろうと思っていたのですが、とにかく頻繁に出入りしなければならず、結局、ほんの少し細切れに聞いただけでした。事務局というのはこういうことなのだ、と改めて分かりました(笑い)。それでも毎日2〜3人、 北京環境ボランティアネットワークのメンバーにお手伝いに来てもらい、労力的にも精神的にも随分助かりましたけど。

  • これは事前に中国側と論文の訳でもめたから言えることですが、中国側には「中国はこれだけ日本のことを知っているが、それらが正しい理解、認識なのかをこの機会に日本の専門家に指摘して欲しい」という意図が当初ありました。それについては、それはそれで意味あることだが、日本側にはむしろ中国の環境問題の実態をより多く知りたい、より良く知りたいというところに最大のニーズがあるのだと申し上げたんです。

  • 結局、中国側はむしろこんなに事例だらけでいいのか、と心配になるほど、具体事例中心に選び直したのですが、それが日本側の先生方に、今回ほど中国の現実が詳しく出てきたことはなかった、との高い評価をいただいたようですので、良かったのでしょう。その一環でこんなエピソードがありました。日本から水俣病を長年研究している宇井純先生や原田正純先生がお出でになるので、 中国の松花江の水俣病関係者を呼べないかということを申し入れたのですが、中国側は「水俣病は医学の問題だから、その関係者を呼ぼう」ということで、松花江水俣病の医学研究者には連絡がつかなかったこともあり、結果的には医学関係で太原の先生1人が参加されました。

  • その太原の高増林さんからは論文が2本出されました。1本が公害病認定についての概論、もう1本がイタイイタイ病的症状が出ているというカドミウム汚染の短い論文で、中国側は他の人との兼ね合いから1本にしたかったようですが、いずれも捨てがたく、2本ともお願いすることにしました。 その発表内容が、日本で「中国にもイタイイタイ病?」と報道されたのには、反響の大きさに驚いたというのが正直なところです。


*今、振り返って―
  • 生意気ですが、事前に心配していたよりうまくいったという面が多々ありました。多くの方々から「中国の被害者の方から生の声を聞けたことを含めて良かった。 初めてとしては"大"がつく成功だよ」というお声をかけられて、ホッとしているというのが偽りない気持ちです。

  • もっとも、現地調査2日目のセンター見学では通訳・案内を務めさせていただきましたが、99年秋以来、北京にいる時には入り浸って研究や 会議の準備をしてきた拠点でしたし、案内した日本側参加者の多くは長年お世話になっている先生方でしたから、些か家族を舞台裏に案内するような気恥ずかしさもありました(笑い)。

  • 何人かの先生から事前に「今回は始まりにすぎない」と言われたのですが、個人的には一時「始まり」にできるか危ぶんだことすらあっただけに、 本当に後につなげていけるものになれば裏方をさせていただいた甲斐もあると嬉しく思っています。今後は2年後に行われることになる方向で確認されていますが、研究者を目指す立場としても、これまで中国と関わってきた立場としても、今後もこの種の日中交流が成果を上げていくことに何らかのレベルで私なりに尽力できればと考えています。

  • 日中交流は、昔は人民友好などと言っていたようですが、私が直接知っている時代の主な担い手は政府と企業で、環境問題で言えば公害を出したり許したりしてきた側になります。ここがいくら交流を進めても、被害者、社会的弱者にまで配慮した本当の環境改善は難しいでしょう。といって、日本で公害被害者救済を進めていた人たちが、 やむくもに中国の広大な人民の海に飛び込んでいっても、本当にその経験を役立てることができる人たちを探し当てるのは大変です。今回のWSをそうした日中の公害被害者同志の交流の出発点、あるいは日本の公害経験を中国で本当の意味で役に立てる道を切り開く第一歩にする、というと、「成功裏に閉幕」した後の今では裏方としては言い過ぎかも知れませんが、個人的には当初からの夢としてあったことは確かです。


*今後につなげるために―
  • ただ、将来につなげる上では、冷静に今回、実はどのような食い違いがあり、どの程度噛み合っていたから「成功」といえるのか、明らかにする必要があります。中国で既に明らかになっている被害の深刻さや広がりと、センターが実際に支援を提供できる被害とにはまだかなりの隔たりがあります。これを埋めるために日本の公害被害者やその支援者の経験は有用と思われますが、その方法はまだ明確とはいえず、私を含め日中の関係者が模索すべき課題でしょう。松花江水俣病のような問題だとさらに歴史認識にも踏み込んで議論していかなければなりません。個人的な夢を前述しましたが、今後、本格的に広大な人民の海の中で日本の公害経験を必要としている人たちと日本側をつないでいくときに、王先生のセンターだけで十分か、という問題はありますし、一方、王先生のところほど組織化されていなくても、個別にそういう志や能力を持っている人たちが他にも出始めているようです。そういう人材を探すことは、私の研究課題でもありますが、そうして知り得た人たちをネットワーク化していくのが実践面での私の役割かもしれません。

  • しかしながら、それ以前に今回の報告書をまとめるという仕事が横たわっていまして、そうそう大きなことばかり言ってもいられません。現実的なおちですみませんが(笑い)…。




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