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「環境紛争処理北京WS」(4)

 第1日基調講演 (要旨)


ワークショップ初日に行われた日中両代表による基調講演(要旨)は編集・制作上の都合で、今回の掲載となったが、王、淡路両代表はその中で、それぞれの環境紛争問題の歴史と現状、そして問題点を浮き彫りし、以後のセッション報告や議論の提起を試みた。
【文責:司 加人】

1.王燦発: 「中国における環境紛争処理の歴史と現状」
2.淡路剛久: 「日本における環境紛争処理の歴史と現状」






 
◇第1セッション「基調講演」

○紛争処理のための立法とサポートシステムの確立が急務 ○

1.王燦発:「中国における環境紛争処理の歴史と現状」

=公害被害者法律援助センター長/中国政法大学法学部教授=

中国側を代表して基調講演する王燦発さん

  • 初めに中国における公害・環境問題の現状について、次に中国はいま環境保全でどのように対処しているのか、そして三つ目は環境に関する法律的にどのような問題点があり、それをどのように改善していこうとしているのかについて報告したい。

  • 最初に、中国の環境問題とその発生についてだ。まず、日本のみなさんが気になることだと思うが、中国において環境紛争問題がいつ頃から問題化され、その後どのような流れできているのかということについて簡単に触れたい。それは、明朝あるいは清朝時代に遡ることができる。つまり、今から何百年前から石炭や鉱山の問題でそのような公害が生じていた。そして、近代または現在における公害問題の発生は1950年代の末ないしは60年代の初期に発生していると、私は思っている。ご存知の通り、中国は58年から"大躍進"というスローガンの下に政治運動が始まったが、その直前の57年には工業関係の企業が17万社存在し、59年には31万社と見ていたが、最近の新たなデータでは60数万社となっている。このどちらが正しいかは私自身確認できていない。

  • このように58年頃からできた、いわば小さな町工場のような工場は汚染防止に関する措置は取っておらず、しかも住宅地の中に建設されていたので、汚染問題は非常に深刻だった。

  • 1960年代から70年代において、これもご存知のように中国では文化大革命が起こり、この政策はすべての法律を白紙に戻すという運動だったので、50年代後半に作られた小さな工場は汚染という点から見ると、不法汚染の状態で、また工場同士の争いも絶えなかった。こういう環境紛争問題は70年代になって明らかになった。

  • 例を上げると、湖北省の砂川県で発生した問題だが、化学工場が発生したH2S、SO2などの有害な排気ガスと汚水を大量に排出したため、周囲の村の農作物200歩(1歩=660平方メートル)においてまったく収穫ができなくなり、さらに300歩が約70%の減産を余儀なくされた。しかし、当時は被害者の声に聞く耳はなく、届かなかった。また、農民が自主的に組織して、公害紛争を起したら、反革命破壊行為として処罰される可能性もあった。そういう意味で、自力救済の行為は公には取ってはいけない。もし取ったら犯罪になるし、報道関係も大々的には報道しなかったので、今の時点で当時の実例などを新聞等で調べることは困難だ。

  • 20世紀の後半、79年に中国政府は暫定的ではあるが、「環境保護法」を制定した。この中には、国民が環境汚染破壊企業・個人に対して監督、告発、控訴する権利を有すと書かれている。さらに、もしそのような環境汚染・破壊をした企業等に対しては環境保護局は損害賠償を請求してもよいということも書かれている。それによって、各住民たちが環境危害に対し告発できるようになった。また、環境汚染に対する問題もマスメディアで取り上げられるようになった。

  • 1985年になって、中国国家環境保護局から毎年1回、「環境統計公報」が発表されるようになり、その中に環境汚染に関する来信、来訪のデータ−環境汚染事故や損害賠償の状況について記載されている。

    【スライドにて説明】

  • その統計によると、2000年の環境紛争案件は約30万件に上っている。ただし、これは地方の環境保護センターへの手紙や来訪件数は含まれていないし、明細も発表されていない。しかし、その傾向を見ると、86年から若干高めになっているが、92年から95年までの4年間は比較的低い数字になっている。これは、92年に大きな事件があり、以後4年間は小規模工場の伸びがなかったために、公害も比較的少なかったと考えられる。しかし、94年からまたケ小平総書記が全国を巡回し、経済の開放を呼びかけたため、全国的に小型企業が増大。それにともない公害問題も年々増えてきている。したがって、94年以来公害問題は増長する傾向になり、97年からは直線的に伸びてきている。2000年の環境紛争の総件数は30万件を超えていると推測される。

  • 一方、原因と内容について分析してみよう。まず環境紛争の種類だが、騒音が46%とほぼ半分を占めている。したがって、我々の環境保護総局への陳情やクレームでもっとも多いのは騒音に関するものでもある。なぜ騒音問題が多いかというと、睡眠妨害は生活に影響するし、他の大気汚染問題とか水汚染問題の方が件数が少ないのは、個人でなく、その地域の人々がみな同じ条件にあるからで、他の人が言い出さなかったら自分も言わないなどの理由からだと考えられる。それに比べて騒音は特定地域のものであり、それには人々は敏感であるということが言えよう。

  • 陳情等は都市部の住民からのものが多いということが言える。都市部の騒音が激しいというのと、問題だというのを合わせると36%になっており、「軽度」と「問題ない」というのとほぼ3分の1ずつになっている。

  • 全国の汚染問題の分布を見ると、ほとんどが沿海都市となっており、合わせると80%を占めていることが分かる。

  • 次に、環境汚染損害賠償の数量と金額の分析結果を説明したい。89年から99年のデータによると、規定基準を超えた事故件数は年々少なくなっていることが分かる。

  • 次に、汚染の発生原因について触れると、第1に、中国の環境汚染状況はどんどん悪化しており、人々の正常な生活に影響を与えている。したがって、陳情する人も増えているということだ。第2に、計画通りに建設しなかったために、一部の工場あるいは環境汚染に影響を及ぼす可能性のある商品を製造している工場による環境汚染問題がある。第3に、環境保護に関する行政がキチンと行われていないことだ。すなわち、建ててはいけない所に工場を建設したり、環境に影響を及ぼす工場は本来閉鎖すべきなのに実際には閉鎖されていないということで環境汚染問題が生じている。第4には、人々の環境に対する意識がますます高くなってきて、工場などの説明では納得できないということで陳情につながっているということが言える。

  • 中国における環境紛争に関する処理方法は5つある。その第1は、紛争当事者双方が自ら和解していく。第2は調停による解決。第3は行政部門に処理してもらう。第4は、仲裁による解決。さして第5が訴訟による解決だ。

  • 次に、環境紛争を処理する法律や政策について申し上げたい。中国はまだ完璧な環境紛争処理政策をもっていない。専門的な環境紛争処理方法を立法する機関がない。環境紛争処理の立法が立ち遅れている原因についても我々は研究した。ここでは詳しい説明をしている時間がないので私の論文を読んでいただきたい。

  • 最後に、中国に環境紛争処理を健全に、有効に処理するメカニズムを作るべきであり、いかに作るべきかについてだが、第1は、健全な処理をするための立法機関を作らなければならない。第2に、処理するための行政機関を設けなければならない。第3に、環境紛争処理のサポートシステムのフルシステムを作らなければならない。このワンセットのサポートシステムにはまず環境問題の監視機構を確立して、環境汚染の監視義務を果たさなければならないし、環境汚染の被害の原因、汚染の損失に対する勘定および評価を専門に担当するセクションが必要だ。第3には、公害病に対する調査と認定制度を強化しなければならない。第4には、弁護士および裁判官に対し、環境法に対するトレーニングを行う必要がある。



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○ 4大公害裁判を転換期に和解など新たな方向出てきた ○

2.淡路剛久:「日本における環境紛争処理の歴史と現状」

=日本環境会議理事長/立教大学法学部長・教授=

日本側を代表して基調講演する淡路剛久さん

  • 時間的に制約があるので、詳しくは論文集を参照していただくことにして、まず強調したいことを申し上げる。第1には、日本での公害紛争の歴史を総括して言えることは、公害紛争の被害者が救済されて、その権利が確立されるということなしには公害を撲滅するということはできなかったということだ。第2には、公害被害者の権利を確立するためには、いわゆる4大公害訴訟と言われる訴訟が大きな転換点を作ったということだ。第3には、4大公害訴訟のあと、大規模な公害訴訟というのは和解によって終わるというのが一般的な傾向になったが、裁判所の判決で被害者の権利が認められ、加害者の法的責任が認められた後で結ばれた和解と言うのは、被害者の権利救済をさらに進め、あるいは公害対策をさらに進める内容となる傾向があるということだ。第4には、日本では裁判所外での紛争解決をする機関として、中央に大きな紛争処理を扱う公害等調整委員会があり、都道府県には公害審査会を置くことができることになっているという紛争処理制度があるが、なかでも公害等調整委員会は当初の頃はそれほど大きな役割は果たしていなかった。しかし、最近になって裁判にいかないで委員会に提訴して、それが独自の権利あるいは被害者の権利を法的な観点からある程度認める、あるいは妥協に至るがある程度の法的判断を加えながらやっていくという、物事あいまいにして妥協的に終わらせるというものではなくて、専門の紛争処理機関としての役割を果たすケースが出てきている。そして第5には、被害者救済の制度として公害健康被害補償制度というのが公害健康被害補償法という法律によって作られており、この制度は大気汚染被害者については被害者に対する基本補償として一定程度役立ってきたように思われるが、道路の大気汚染問題で被害者が新たに発生しているということが分かってきている中で残された問題がまだあるという指摘をせざるを得ない。水俣病の被害者については、認定された被害者に対して協定によって支払われているわけだが、この認定制度そのものが被害者を切り捨てるという役割を果たしたという批判が強い。

  • 次に、私の話は宇井純さん、原田正純さん、大久保規子さんらの報告と重なる部分が多いので、その部分はスキップして、4大公害訴訟問題に移りたい。水俣で有機水銀中毒患者が初めて発見されたのは1956年だが、59年頃にはチッソが原因者だということはおおむね明らかになってきた。この原因究明をめぐってさまざまな見解が提示される中で、64年の新潟地震の後に、新潟県阿賀野川流域で第2の水俣病が発生し、さらに富山県の神通川流域では長い間地方病と言われていた病気が実は三井金属の神岡鉱業所からの排水による公害病−イタイイタイ病と名づけけられたが−だということが判明し、さらに各地で石油コンビナートの立地が進行した結果、その一つの四日市で隣接地の磯津地域で「四日市ぜんそく」と言われる子供の呼吸器系の疾患が多数発症した。

  • 4大公害が明らかになり、それらが報道され、原因究明、被害者への救済が提起されるが、原因究明については国が調査をするということになる。しかし、ある地域については原因者を断定するが、別の地域では「基盤をなしている」との表現に止まったりした。

  • そういう中で、公害の実態はさらにひどくなり、その対策としてさまざまな基本法を作り、さまざまな規制法を作っていくが、被害者救済は進まなかった。そこで被害者が選択した道が訴訟であった。

  • 日本における公害は多くは農村や漁村に多発し、しかも当時は都市部においてすら統一的な形で判断するということは極めてまれであったということを想起していただきたい。

  • 最初の大きな公害訴訟となったのは新潟水俣病事件であったが、被害者はやはり従来の日本人の行動様式であった県知事が間に入って示談で解決することも一方では期待していたが、示された解決内容が圧倒的に被害者に不利であったために、被害者はこれは闘う以外にない、自分たちで自分たちを守るしかないということを決意し、日本の中でも伝統的な農村地域で、日本で最初の大きな訴訟が起され、被害者同士の情報の交換、弁護士の協力、世論、新聞が毎日大きく取り上げるという中で、4大公害訴訟というのが世論の支持、支援者たちの協力の中で60年代から70年代にかけて訴訟を提起し、そして勝訴を勝ち取るという歴史があった。

  • 4大公害訴訟の途中で、被害者の運動、世論や制度的には無過失責任法が制定されたり、公害健康被害補償法や公害紛争処理法が制定された。そして、その後は公害紛争が裁判に持ち込まれるということは珍しいことではなくなり、いわゆる公共性を標榜している訴訟として大阪国際空港公害訴訟、新幹線公害訴訟が提起された。

  • 四日市公害訴訟の後の大気汚染訴訟としては千葉、西淀川、川崎、倉敷、尼崎、名古屋南部、東京などで公害訴訟が起され、熊本水俣病、新潟水俣病の被害者はそれぞれ熊本(2次、3次)、新潟(2次)のほか、東京、京都、大阪(関西訴訟)で訴訟を起した。こうした4大公害訴訟の後、おおむね80年代から90年代にかけて大型の公害訴訟が争われて、20世紀の終わりまでには判決が言い渡され、その後和解をして大体は終わったが、現在なお水俣病訴訟は最高裁の判決待ちになっており、大気汚染裁判としては固定発生源−工場というより移動発生源−道路、自動車の責任をどうするかという点で道路管理者や自動車メーカーの責任を問うている東京裁判が判決を待っているところだ。

  • ところで、公害紛争が裁判で判決を受けた後、それで最終的に終わるということはまれだ。なぜならば、公害は解決されていないので問題は残るわけだ。その時に、判決後に和解するというケースが非常に多い。この場合の和解の成立の仕方はいくつかのタイプがあるが、注目すべきは判決で法律的な判断を受け、黒白はっきりして権利義務の内容が明らかになった後の和解はおおむね判決内容よりも有利な形で公害対策を取らせ、かつ被害者の救済が進むという例が最近多いということは注目されよう。

  • 最近の大気汚染裁判では判決後の和解で、地域の環境再生のためのある種の和解金というものが被害者個人に対する損害賠償とは別に支払われる例が多くあり、この点も注目すべきで、公害・環境汚染というのは被害者個人に損害を与える、家族に被害を与える、地域を破壊し、その発展を妨げるというようないくつかの段階で被害を拡大するわけだが、裁判上の損害賠償制度というのは個人の被害の部分と、家族にある種の法律論が充たされれば認めるが、地域についての損害賠償は認められないという制度になっているものの、判決後の和解で環境再生ということで、被害者がその金を受け取って地域再生をしていくというようなことが始まっており、これも注目すべき事例である。

  • 考えてみると、地域が破壊されたなら地域の自治体が損害賠償を請求して、それでもって地域を再生すれば良いのだが、自治体はそういう形では動かないし、法律論としても難しい。そこで、被害者の私人の力を使ってパブリックな部分の損害を回復させるという、いわばインセンティブになるが、こういうのも新しい現象として、注目される。

  • さきほど王先生が公害紛争処理に5つのタイプがあると指摘されたが、日本でも裁判だけが紛争解決でないわけで、昔から当事者の示談、行政などが間に入る調停斡旋、紛争処理制度などさまざまなやりかたがある。歴史的に見ると、示談とか和解とかの制度は60年代までは大きな意味を持たなかった。紛争を最終的に解決しなかったから、常に公害が蒸し返されたからだ。しかし、そのような制度を50年代から60年代にかけての法律は和解の仲介制度として制度化し、それから公害紛争処理法という形で中央に公害等調停委員会を置き、地方に各県の審査会を置くという公害訴訟処理制度を設けたわけだ。

  • 50年代から60年代の水、大気汚染、騒音などに仲介制度が設けられたが、当時、紛争処理法ができる以前の個別の法律の和解の仲介制度では、たとえば大気汚染関係はたった3件であり、水質汚染関係は29件しか提訴されていなかった。紛争処理制度になってから次第に機能を果たしつつあり、期待されていると言っても良いかもしれない。

  • 公害裁判所としての役割を果たすためには条件が必要である。当事者の同意を得るということだけでなく、ある種の強い法的権限を持って、調停・仲裁だけでなく裁定のようなこともできるし、必要に応じて権利と義務の法的判断をすることも必要になるし、委員には独立性がなければならない。証拠調べのために専門家を活用できるような資金的裏付けと制度の工夫が必要だ。また裁判は長いわけで、短期に、早期に結論が出せるように人員と審理の工夫が必要だと思う。



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