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あおぞら財団主催

シンポジウム「公害の歴史に学ぶ」
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シンポジウム「公害の歴史に学ぶ−公害問題の歴史を振り返り、未来を語る」の後半の部分を再現する。3講師から"これからのこと"についてのメッセージが発しられた。


スピーカー :宮本憲一(大阪市立大学名誉教授)

:小山仁示(関西大学教授)

:宇井純(沖縄大学教授)
コーディネーター :芝村篤樹桃山学院大学教授
シンポジウム


日本社会の現状を見る重要なポイントは?

芝 村:さきほどから色んな議論があって、環境、あるいは公害問題ということで、日本の政治、政党あるいは諸般の状況、あるいは社会の状況といいますか、そういうふうなものが持つ問題点といいますか、そういうものが、宇井先生のお話しから伺えました。公害・環境問題というものが、日本の歴史の中で、あるいは現状において、ひとつは心部といいますか、日本の社会、政治あるいは学校の状況というものを見ていく上でより重要な視点となっている。そこから非常に鋭く色んな問題点、課題が浮かびあがってくるということを改めて感じます。


住民と研究者の連携など様々な道開いた三島・沼津の運動

宮本 憲一さん
宮本 憲一さん
宮 本:20世紀の環境問題を振りかえって、社会科学的な切り口に限定して言いますと、公害問題というのは、企業が利潤を追求することによって、公害の防止とか環境の安全とかいう経費を節約するという、そのことが公害を引き起こす第一の原因で、これを市場の欠陥という人も、市場の失敗という人もいるわけですが、それだけではなくて、水俣病の問題で言いますと、これは明らかに政府が法律を作りながらそれを適応しないとか、調査を妨害するとか、日本の場合明らかに行政活動の欠陥というものが大きく働いて、公害問題が解明されない、責任がどこかで曖昧になってしまう。それだけではなくて、最近の公共事業の環境破壊のように、政府そのものが環境破壊の元凶になるという意味では、政府の欠陥とも言えると思うんですね。

日本の場合、市場の欠陥と政府の欠陥が相乗する、ここに非常に深刻な問題が出てくるわけで、環境というのは公共信託財産と我々は言っていですが、ここの空気が汚れているかというのは個人だけではなかなか難しいから、公共機関に環境というものを信託して守ってもらわなければならないわけですけど、実際には公共機関が守らないわけですね。 そういう意味で、どうしても経済制度の外側から、この公害問題を抑止する、あるいは予防する力というものが生まれてこないと良くなりませんし、また行政そのものを変えるという力がないと、公害というものはなくならない、あるいは予防できない。これが僕は日本の歴史がこれまで示してきたことではないかと思いますね。ですから、公害史を振り返って何らかそこで新しい原理が生まれたり、対策が前進するというのは、常に公害反対の住民運動というものが熾烈に闘われて、そしてそれは非常に効果的な政策を提言していく過程で生まれてきているというふうに思うんですね。

戦後の場合、宇井先生が触れたように、三島・沼津の運動というものが、私は戦後市民運動の転機になった運動だと思うんですけど、これなどは、三島・沼津という日本でも有数の景観のあるところですよね、富士山麓の。今行ってみるとあそこにコンビナートを作らなかったというのが、どんなにすばらしいことだったかと。もしあの景観を日本が失っていたら、日本という国は重大な過失を犯したということになるという意味ではですね、あの運動は誰が見ても非常に立派な運動であったということは分かるんですけど、当時は、住友関係の資本と、通産省・静岡県というのが束になって地域開発をしようとしたところなんですね。工業整備特別地域として、新産業都市の、準新産業都市ですが、そこに指定をしましてそれでコンビナートを作ろうとしたわけですね。あの運動が非常に成功したのは、これも宇井先生から革新政党への批判がありましたが、労働組合や新政党が何もしなかったわけではなくて、宣伝したりあるいはお金を出したりですね、縁の下の力持ちとしては、彼らは実によくやったと思います。 国労とか高教組とか、共産党、社会党がバックにいなかったら、市民運動は前進できなかったと思います。

しかし、あの運動の良さは、その後に教訓を残したのは、従来の形の労働組合主導型とか、政党主導型ではなかったということだと思うんですね。非常に広い層の、農漁民とか市民とか、場合によっては銀行の支店長まで巻き込んでですね、医師会や薬剤師会も全部参加するというですね、そういう意味で本当の市民運動であったということが、僕はあの運動の非常に大きな成果であり、教訓だったんだと思うんですね。そしてもう一つは、さきほど科学者の問題というのが出ているわけですが、私は科学者の役割というのが非常に重要だと思うんですね。

つまりマイナスに働いている科学者の役割というのもあって、日本の科学者の中にはやっぱり企業や政府につきたがる科学者が多数を占めるので、どうしてもそういう傾向があるんですけど。しかし、必ずしもそうではない。戦前でも、鏑木徳二などがいたから日立の公害事件だけでなく、大阪アルカリの事件も勝たせたのです。それから鏑木は関一に慫慂(しょうよう)されまして、留学してですね、エコロジーの研究をしてこれが庄司光などを生むきっかけになるんですね。 そういう意味でいうと、科学者がすべてマイナスではなくて、科学者がどちらに立つかということによって運動が前進するということは、戦前からそうでありまして、例えば、別子の鉱毒事件なんかも、なぜうまく住民運動が相手側を屈服させたかというと、岡田という東大の農学部を出た人が故郷へ帰って農業を発展させたいと考えて、地元のいわゆる農協に勤めて、彼がやった非常に科学的な調査が、住友をしてまいったと言わせるきっかけになるわけですね。

そういう意味でいうと、それぞれの時期にどんな科学者がどういう役割を果たしたかというのがあるんですが、この三島・沼津の運動の場合も、あそこに幸いにして国立遺伝研究所という国際的な研究所がありました。 木原均先生−米の、イネの研究で有名ですが−が所長をされていて、国立遺伝研究所は、ここを公害の汚染地域にすることは反対だということを決めたわけです。文部省から圧力がかかったわけですけど、いいと、木原先生は踏み切ってですね、松村さんという、もう亡くなられましたが、放射線の非常に大家でありますが、彼が地元の調査団の団長になったわけです。

そういう非常に優れた科学者を擁して、それからさきほど紹介があったような工業高等学校の先生が、これまた揃っていたわけですね。大気の専門家とか、あるいは地下水の専門家とか…。そういう人たちが協力をした。相手側は2000万円の金を出して黒川調査団を動員して、日本最初の環境アセスメントをやったわけですね。その時は、自衛隊も協力して飛行機を飛ばしたほど大変なお金がかかったわけですが、それに対して調査団の方は、三島の市長が5万円出したんですね。これがやっと資金としてはまとまったもので、あとは全部ボランティアで労力奉仕したわけですね。彼らのすごかったことは、科学的な調査を住民の手を借りて、住民が学習する形を行ったということだと思うんですね。

例えば気流の調査は、有名な話しですが、高等学校の生徒が一斉に市内にこいのぼりを立てて、そのこいのぼりの尾っぽがどっちを向いているかというのを観測させて気流を調査したりですね。住民は自動車に積んで、寒暖計を積んでですね、上がったり下がったりしながら逆転層の位置を確かめる。しかしそれはやった住民はこれで逆転層とは何かということが確実に分かるわけですね。これはすごかったと思いますね。ですから、研究者の独善ではなくて、研究者が住民の力を借りて調査をして、その学習会を彼らは1000回やったと言いますけれども、色々な形で学習したものを発表して、住民の意識を変えていったということではないかと思うんですね。そういう科学運動であるということは、私は公害の問題では非常に重要な意味を持っていて、そういう科学者の協力と、学習というものがないと、なかなかその恐ろしいという感覚的な言葉が本当の理性として、公害というものは止めなければならないという判断にならないんじゃないかと思うんですね。

それから、僕は戦前の運動と違って、三島・沼津の運動が一つの戦後の転機を成したと思っているのは、戦前はやはり産業間の対立だったんですね。戦前の場合は農民と、つまり農業対工業や鉱工業の対立は、これはこれで非常に重大な意味があって、資本主義の発展のもとでねじふせられていく農業というものが解放を求めて産業勢力と対抗していくわけですから、重要な意味があるのですが、やっぱりその産業間の対立という色彩が強い。それから惣百姓一揆と言いますかね、地主に率いられて、例えば大阪アルカリもそうだったんですけど、非常に開明的な地主が先頭に立って農民を引き連れて訴訟を起したり、住民運動を起すという形をとっていたんですけれども、三島の時に至って、完全に企業対市民という形に変わったと思うんですね。産業間の被害ではなくて、市民の健康とか、生活環境というんですね。つまり経済的利害を超える人権の問題として、その三島・沼津の場合に運動が進んだということが、僕は戦後の非常に大きな意味があって、戦後の特徴で、以後三島・沼津型と言われるように、市民の運動というのはやはり、経済的な被害を求めるというのではなくなったと思うんですね。

人権の回復というあるいは、民主主義というものを求める。やり方もですね、三島・沼津でやったのは自治体を屈服させると、自治体を住民の側に立たせるという、自治体を利用する方法だったんですね。これが戦後の今までにない戦後体制の中で生まれた新しい方法だったんじゃないかと思うんですね。それが革新自治体の問題に発展していくわけで、僕は戦後の問題を考えるときに、戦後民主主義というものをどう評価していくのか、それをどう自治体に、世論なり運動なり発展させていくかという視点が非常に重要で、この点で三島・沼津は一つの道を開いたんじゃないかと思ってるんですけどね。実はもう少し論理的に戦後の時期区分をやろうと思っていたんですが、ちょっと長くなりましたので、ここではこの辺にします。


公害・環境運動の歴史と現状について


芝村 篤樹さん
芝村 篤樹さん
芝 村:歴史の問題、特に戦後の公害環境問題に関わる問題が今、宮本先生からよりまとまった形で提起いただいたんですが、公害問題の歴史という場合に、宇井先生をはじめ、足尾鉱毒問題、これをひとつの原点として、で公害問題の歴史が始まるという、そういう捉え方があるだろうと思うんです。そういう戦前からの問題とともに、やはりそれを踏まえると同時に、戦後公害環境問題がどうであったかというふうなこと、これを中心にこれから話しを進めていくことができればと思っております。

今、宮本先生のお話しをお聞きしてあらためて気付いたのですが、宮本先生の基本的な姿勢は、沼津・三島型といいますか、それが持っていた非常に大きな意味はいろいろご指摘されたわけですが、やはり市民型の運動と言いますか、それが戦後の民主主義に支えられた、そういう市民型の運動というものが成立をしたという点で、戦後の運動の原点と言いますか、大きな転換点であるという捉え方があろうかと思います。これはさきほど宇井先生がこれは公害研究ということで言われたと思うんですが、1970年の初めに第一ブームがあったと。これが今消え去ったのではないかというふうなお話しがあったんではないかと思うんです。おそらく公害研究だけではなくて、市民運動の今に至るまでの状況と言いますか、そういうものともつながる問題提起ではなかろうかと思うんですが、戦後のそういう公害環境問題の運動を含めた歴史と、現状についてお話しいただければと思っています。


"専門家に任せろ"の横浜方式は失敗だった

宇 井:三島・沼津の運動の評価については、私も宮本先生とほとんど同じなんです。ただ、しょっちゅう論争をふっかける癖がありまして、もう一つ論争をふっかけるためには、これからその後に出てくる革新自治体の中でいわゆる横浜方式、つまり飛鳥田横浜市長が住民は公害問題に対する専門的な知識や経験がないから、横浜市にテクノクラートを養成して、そしてこれが市民の立場に立って、企業と公害防止協定を結ぶ。そうすれば、公害がよくなるんだという、いわゆる横浜方式というのを提案しまして、ちょうど沖縄が復帰する前後にもこの議論は沖縄で繰り返されましたし、それから日本全国で横浜方式による、「我々は厳しい協定を作ったんだ。だが協定の中身は横浜よりも厳しい基準で決めているので、日本一厳しいんだ」という議論をいたる所で聞かされた。新居浜でも聞かされた。

私達は自主講座の中で横浜の貨物線反対運動をやっていた宮崎さんたちからの議論を聞きまして、この横浜の、自治体のテクノクラートが住民に代わって企業と協定を結んで公害を抑えるというのは、どうもうまくいかないと。横浜の場合にも、現に公害があるのに、住民が企業に文句を言いにいくと、「私どもは横浜市と協定を結んでいます。ですからそれを守っていまして、文句があるんだったら、横浜市に言ってください。」というふうな形ではねのけられる。日本全国そうですし、沖縄の場合なんかも、ちょうど屋良さんが知事になって復帰した時に、東海岸の埋め立てをやって、巨大な公害企業をセットで誘致しようという金武湾の開発計画があった。そこでも横浜方式で止められるということを県は主張し、それに対して、そういうことでは止められないからもっと住民の側に立った行政をやれと主張した地域の住民運動に対して、当時の与党であった革新政党や労働組合は、革新政権自治体の足を引っ張るものだとしてこれを袋叩きにした。

宇井 純さん
宇井 純さん
そういう経験を持っているわけですから、当時のもちろんテクノクラートの力を過信した社会党や共産党の責任ではあるんですけれども、やっぱりあれは失敗であったということを、戦後の歴史の中で認めなければならないんじゃないか。これが私たちが自主講座で、関係者というか、公害の被害者を呼んで話しを聞いてたどりついた結論であった。このいわゆるテクノクラートによる善政主義ですね、我々が政権をとればいいことをやるんだから問題はなくなるんだ。それから住民はそうたいしたことは分かってないんだから、黙ってついてこい。テクノクラートに任せろ、という代行主義。これが正面に出てきたのが横浜方式であり、飛鳥田市政であった。70年代の一時期にこれが全国に普及して、結局公害を出す側にとって有利な展開になってしまったという、これはまた歴史的な批判がもう一つ運動側からあるんですね。どうも、そういう点で、ですから宮本先生の横浜、じゃない、大阪市大に行った加藤邦興くんとか、それから社会党の原 野人くんとか、それぞれ論文を書いて、「宇井さんは社会主義のもとでも公害は起こり得ると言っているけれでも、それは社会主義を誹謗するものである」という公開の論文をもらったことがあるんですね。これは70年代半ばです。過去にそういう、やはり理論的な限界というか、混迷があったということも歴史としてはっきり認めておかなければならないのじゃなかろうか。公害の歴史の中で、科学者、社会科学者の中でもいろいろな混迷があった。


今こそ日本の科学者は世界に発信せよ

それが今度は80年代になりますと、公害は解決した、これから地球環境問題だということになりまして、90年代の初めになって、リオの地球サミットをひとつの契機として第二次環境ブームが始まります。また、全国各地の大学で環境学科が作られる。環境大学まで今度はできてます。その中でどれだけまじめな研究がされるか、もちろん猫も杓子もやるということは、下手な鉄砲も数打ちゃ当たるということですから(笑い)、大勢の人がやってくれるということは決して悪いことではないんですけれども、ただ負け戦になった時にみんな引いちゃって、気がついたら自分だけが取り残されて袋叩きに遭うというのも間尺に合わない話なので、どれくらい本気でこれをやるんですかと聞いてみたい場合がよくあるんですね(笑い)。

特に最近の経済学者や、社会学者一般について感じるのは、ある特定の理論を持ってきて、日本の現実の中でそれに都合のいい事例を集めてあてはめてみると、もちろんその理論は合います。したがってこの理論は正しいというふうな形の論文がたくさん書かれる。だけどそういう人に限って四日市なり、臼杵なり、沖縄なりという現地には行かないで、誰それの本にこう書いてあった、あるいは新聞記事はこうであったというふうなレベルでの、それも自分の理論に都合のいい部分だけを集めた研究というものがかなり目立つもんですから、これはやっぱりあんまりあてにしちゃいかんなというのが、最近の社会科学者の第二次環境ブームに集まった人達の、そうですね半分くらいですか(笑い)には感ずるところですね。

聞いてみるのは、いったい何人オリジナルな被害者なり関係者に会って話しを聞きました?っていうのが一つの尺度になるんじゃなかろうか。今の時点で言うと、社会科学に対する危惧というのが、ここが一つあります。それも、ほとんど90%はアメリカでこういう理論がある、ヨーロッパでこういう理論がある、という外来理論ですから、中には本当にひどいのもあるわけですね。例えばクリントン政権の財務長官をやっていたサマーズみたいに、「公害輸出は経済学的に正しい。なぜならば、発展途上国では保証金が安く済むからである」という無茶苦茶な理論が、これはアメリカ政府の正式な見解であると考えていいわけですね。財務長官ですから、あるいは、世銀の副総裁をやっていましたから、世界銀行という援助機関の政策を実質的に左右した人間の理論である、そういうものが通るようなことすらあるのですから。これはもちろん、理論的に宮本先生が前から言っておられる、絶対的損失と相対的損失、というものをはっきり分ければ、市場経済では、相対的損失のさらに一部の市場価値しか計ってないということで、理論的には整理できるんですけども、しかし相手の持っている権威性というものは大きいものですから何も知らない。例えば発展途上国の学者や政治家がそっちを支持してしまう。そういう危険がある。そこでもまた、日本の社会科学がしっかりして、世界に対してものを言わなければならない、そういう必要を今痛感しています。