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−「水俣病事件」関西訴訟特集 I− |
| 《ルポ》判決前日・当日:かつてない異常な感覚 |
| 一審の時とまったく違う張り詰めたムードに |
| 【寄稿:山中 由紀】 |
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〈判決前日集会〉 2001年4月26日(木)午後6時半、チッソ水俣病関西訴訟控訴審の判決前日集会が大阪・天満橋のドーンセンターにて、開催されました。昨年2月に熊大の 浴野成生(えきの・しげお)先生の講座をやった時と同じ会場ですが、そのときに比べると、満席に見えるような賑わいでした。 水俣では、新聞で連載したのは熊本日日新聞と朝日、読売、NHKが少々なんだそうですが、26日の夕方のニュース番組は関西訴訟特集で占められており、大きなカメラがずらり! 中継車も1台来ていて、司会の古閑さん(関西訴訟を支える会)が開会を宣言しても、肝心の原告団長がまだ取材中という珍事まで起こりました。中継でもしていたのでしょう。 集会は冒頭、これまでに亡くなった多くの患者さんやその関係者の冥福を祈って黙祷が行われました。一瞬おいてバシャバシャというシャッター音。こんな時も写さなければいけないの?と思うとともに、私なりに亡くなった方々を思い出し胸が熱くなりました。
この段階で、まだ7時。実にテキパキとした進行でした。 次に、京都告発の会の小坂さんが、法被姿で壇上に上がり、砂田明さんの詩「起ちなはれ」を朗読。砂田さんの一人芝居の一部、再現。最後のところが、リメイクされていて、「子孫のためにできるだけのことをやるんや。勝ち負けは歴史の流れの中で明らかになる」というふうになっていました。私も同感でした。隣にいた田尻さん(熊本学園大の社会人学生、看護婦さん。平たく言えば原田正純先生のおっかけ)は、詩自体が初めてだったらしく、感動してました。「砂田明」と教えたので、帰ったら、図書館か本屋に飛び込むことでしょう。在庫があると良いけれど。 そして、遠方からお越しの方々の出番。まずは原田先生。会場後方では「いつもと表情が違って笑顔じゃない。実に珍しいですね」と批評しあっていたようですが、
3列目にいた私の目には「原田先生の顔が梅干しになっている」ように見えました。
ご本人によると、弁護団の頭に白いものが混じっているのを見て、訴訟に要した年月の長さを改めて感じたそうですが、私は
今年の2月に亡くなられた小児性水俣病の荒木康子さんのことを思い、余計に「医師としての無力さ」などがない交ぜになったようにお見受けしました。降壇してからも、眼鏡を外してハンカチをあてておられました。
次は、水俣から、坂本しのぶさんと、患者連合の佐々木清登さん。佐々木さんは登壇する際、壇にけつまずいて、大きな音がしました。お怪我がなくて幸いでしたが、その衝撃で、しのぶさんのスピーチが記憶から欠落してしまいました(私はいつもメモなしで報告を書いております)。しのぶさんは、日吉フミコ先生、砂田エミコさん、 谷洋一さんと一緒に来ておられました。佐々木さんは96年の最終解決のことを「断腸の思い」と表現されました。「苦渋の決断」ではありませんでした。「ぜひ、この耳で判決を聞きたくて来ました」と言われました。彼の絞り出すような声に、会場は引き締まりました。患者連合からは松村さんと、事務局の高倉・弘津の両氏が来られました。 新潟から飛んでこられた斎藤恒医師は、前列中央のやや右手に着座する習慣があるようで、今回も踏襲されておられましたが、おかげで、今回は原告団の中に混じっておられました。でも違和感はありませんでした。彼は「あれよあれよという間に、和解が決まってしまって」と嘆いておられました。 東京からは、作務衣姿の東京・水俣病を告発する会の鈴村さんが挨拶されました。彼は、控訴審になってからはほぼ毎回傍聴され、小さいパソコンで速記しておられました。東京告発春日事務所の面々が来るのは、明日かな。 「水俣おおさか展」で、「薬害エイズと水俣病」というシンポをやりましたが、その縁で、大阪HIV薬害訴訟原告団代表の 花井十伍さんが駆けつけてくださり、連帯の挨拶をしてくださいました。彼は市大の講義「公害と科学」のゲスト講師でもあります。水俣病の原告の半分くらいの年齢ですが、老人パワーに押されたのか、体調が悪いのか、元気がないようでした。 そういえば、原田先生の次あたりに、浴野先生と一緒に研究をしているタヌキ型の体形のお兄さんも登壇されました。この人は、私が去年の 天草環境会議に出かけた時、雪印牛乳でおなかをこわしたかもしれないと沈んでいた私を一声で救ってくれた恩人です。「医者どんがいた!」と安心した私のおなかは、即、完治。「あ」と言うだけで私を治した彼は、彼が何と言おうと、名医です。
そうそう、水俣の 本願の会と、東京の石垣さんという女性の方から電報が届いており、中本幸子さん(熊本学園大卒、控訴審の傍聴の常連)が読み上げて、披露しました。最後に、川上さんの相撲甚句で、終了時刻の8時となりました。 その後は、大阪の夜に散っていきました。携帯電話で連絡しながら、私がひっついていった集団は総勢28名。日吉先生と砂田さんには大津定美さんが、アイリーン・スミスは坂本しのぶさんをエスコート。仲村昭一さんを妙子さんの息子と知った芥川仁さん、宮澤信雄さん、半田隆さんは大騒ぎ。三浦医師は小野田弁護士、斎藤医師、終わった後で到着した坂東弁護士と歓談。原田先生は、学園大から大阪医大に移った倫理学の若手をお供に、市大の女子学生(生物学科3年)とモグリ(谷口・西川・坂口)に大モテ。大阪市大の木野茂さんは、自主講座OBの神沢さんと井手さんを相手にご機嫌。他に、元記者の西村幹夫さん、谷さん、松本さん。田尻さんが料理の注文を仕切ってくれました。そういえば、ハンセン氏病の裁判支援をしている津村さんが来られていまて、弁護士や医師の輪に入っていました。 その他には、ロシナンテの四方さん、白鳥紀一さん、中地重晴さん、カメラマンの 桑原史成さんと宮本成美さん、そして木村忠弘さん・中島圭子さん、熊本のテレビ局の村上さん、市大医学部2回生くん(年齢は中年ですが)。支える会からは、古閑さんの他に横田さん、庄野夫妻、片平さん。 集会の雰囲気は、泣き出しそうと言うか、張り詰めたものを感じました。一審の判決前夜は、誰も勝訴と信じていましたから、今から思えば浮かれていましたが、今回は全く違います。 弁護団事務局長の田中泰雄弁護士によると、判決の時は「裁判長がヨウシを配って説明します」という連絡があったそうで、ニコニコしておられました。
〈判決当日〉 判決当日の4月27日(金)、朝7時に起きてホームページの更新を済ませた後、パン食べて、久しぶりの満員電車に乗って、8時40分に裁判所裏口に到着。原告はたいてい揃っていました。8時50分から、傍聴席の抽選券の配布開始。券を貰ったら、ロープで囲われた部分へ移動。原告以外は、み〜んな、ロープの中。知らずにロープの中に入り込むと、裁判所の職員が飛んできます。 9時20分までに、100名ほどがロープの中に入って談笑、というか特に市大勢は同窓会状態。教養科目「公害と科学」の現役受講生と既習生、モグリ受講生が、デッカイ声で再会を祝していました。やはり若いのが混じると、その場の雰囲気も若々しくなります。 抽選方法は、コンピュータ抽選。合格発表のときのように当選番号が貼り出されました。当選は30人だけ。私は11番でしたが、外れ。秀逸なのは、地球学科院生の西原さんで、登校途中に裁判所に寄ってくれた彼女は、当たりくじを引くだけ引いて、実験をするため、大学に向かわれました。 次は、裁判所の反対側へ、民族の大移動。よくテレビのニュースで、原告が裁判所に入っていくシーンがありますが、その撮影のため、原告を先頭にして行列作り。先頭が裁判所の門前で、原告が「チッソ水俣病関西訴訟原告団」と書いたタスキを下げていることで、職員と揉めていました。マスコミが盛んに撮影していましたが、騒動は、後ろのほうには伝わらず、遠足気分で談笑したまま。結局、タスキは手に持つことで妥協が成立して、裁判所構内へ。原告と傍聴する人は法廷へ、その他の人はそのまま建物を通り抜けて、さきほどの抽選会場で待機。 その間、よいあんばいに、水俣病患者連合の松村さんが近くにいたので、学生向けに即席語り部コーナーをやっていただきました。実年世代の患者には会ったことがない彼らですから、横にいた色黒のおじさんが、1995年に苦渋の決断をした患者と知り、ギョッとしたはずですが、彼らは憶せずに質問しておりました。松村さん、どうもありがとうございました(笑)。 そうこうしている内に、判決言い渡しの10時となり、しばらくして、大川弁護士がメモを持って、駆け込んでこられました。「国と県の賠償責任を認めました。賠償額については、減額された人もあるようです。くわしいことはまだ分かりません」。おぉぉぉぉぉぉぉ!とどよめきが上がり、拍手!! あとで振りかえれば、この時が、最も無邪気に喜べた時間帯でした。 市大からは、木野茂先生が傍聴されましたが、裁判長は、判決主文を述べた後、A4版で5ページの判決要旨を14部配布し、「よく聞いてくださいね、・・・」と説明を始めたそうです。既に転勤になった右陪席の裁判官がわざわざ来ていることといい、裁判長が説明をすることといい、並々ならぬ熱の入れ方でした。
一審判決のときは、原告団長の岩本章さんと副団長の川上さんが「申し訳なかった」と頭を下げていました。岩本さんはその4ヵ月後に亡くなられましたが、今回は、二代目団長となった川上さんが「当たり前の判決が出たということです」と力強く宣言されました。お得意の相撲甚句にも「関西訴訟に勝利がやってきた」という言葉が入りました。 私は、後ろの壁ぎわのイスにいました。近くに原田先生がいましたが、入れ代わり立ち代わり記者が来て、取材。時には、部屋の外に出て取材と、慌ただしいこと、この上なし。有名人はお気の毒で、結局、川上さんの相撲甚句も聞けずじまい。カメラを持ってきておられましたが、撮るヒマなどなさそうなので、原田先生のおっかけの田尻さんと私とで、代わりにパシャパシャ。「ついでに現像と焼き増しもやります(山中)」「あとで、請求書まわしますから(田尻)」。原田先生は、撮り終わったフィルムを2本、「どこいったかな」とカバンをかき回し、田尻さんに渡したのでした。
学生は授業のため、この頃には一人しか残っていませんでしたが、彼女は「先生が散歩と言ってたから来たけど、これって、デモじゃないですか」と騒ぎつつ、「心をあわせて」の旗をしっかりと抱えて歩いていました。帰り際、「あ、返すの忘れて、持ってきちゃった〜」と慌てていました。
京都の小坂さんら10人程度がチッソ本店に入り、「5月7日に東京で予定されているチッソ本社交渉では、社長が誠実に対応するよう、伝えて欲しい」というような要請文を渡しました。
国と県の責任は認められました。熊本大学の浴野説が採用されました。原告団の主治医である阪南中央病院に対する評価は、「信用できない」とした一審とは劇的に変化しました。弁護団は、喜色満面でしたが、岩本さんの長女の恵さんは、頬を膨らましていて、風船みたいでした。
「行政責任が認められたのはうれしいけれど、一審から減額されている人がいる。しかも、ゼロになった人がいるのは、許せない。みんなは勝った勝った言ってるけど、これでは、負けだ!!!」と怒り心頭のご様子。恵さんは、岩本さんが亡くなる半年前から同居し、今や原告団の会計として、爺さん婆さんの面倒を見ておられますから、思い入れもひとしお。岩本さんと川上さんも一審のときは自分のことより、他の原告のことを気にしておられましたから、同じです。 判決検討会の後、仲良しグループ(歌って踊れる婆さんグループ)で近くのお店へ、たまたま通り掛かって同行を申し出た記者も連れて行き、怪気炎を上げたようです。酒が強くておとなしい記者だったから、耐えられたのだと思います。 川上さんは「肩の荷が半分おりた」と言っておられますが、その通りで、行政責任が認められた分しか、肩の荷がおりていません。原告は、切られた人のことを、我が事のように気にしておられます。下手に「良かったですね」と声を掛けると、原告の口からは炎が出かねませんので、くれぐれもご注意下さい。
現在、国と熊本県に、上告の自粛を求めるメールとFAXを送る運動が始まっています。原告の平均年令は70歳を越え、すでに原告の三分の一が故人となっています。原告が上告するならともかく、被告がこれ以上の長期戦を原告に強いるのは、あまりにも冷酷です。ぜひ、上告自粛の意志を、国と県に伝えてください。詳しくは、下記ホームページのメッセージボードに掲載しております。
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●山中由紀(YAMANAKA Yuki) 生命・環境系ドキュメンタリー番組放映情報の案内屋さん *http://homepage2.nifty.com/yukidon/ 郵便振替口座:00930-2-67410 HP「環境系の番組情報」 |
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