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あおぞら財団主催

シンポジウム「公害の歴史に学ぶ」
=上=



宮本 憲一さん
「公害の歴史に学ぶ−公害問題の歴史を振り返り、未来を語る」と題した シンポジウムが2月25日、大阪・大阪府社会福祉会館であおぞら財団の主催により開催された。 講師は 宮本憲一(大阪市立大学名誉教授)、 小山仁示(関西大学教授)、 宇井純(沖縄大学教授) の3氏で、3講師の共通点は理論と実践をこなしているところ。それぞれの立場から 歴史や経験を振り返り、現状分析と今後の展望について議論を展開した。各地からの 住民運動者、市民、学生など約100名が熱心に耳を傾けた。2回に分けて連載する。


【文責=司 加人】


スピーカー :宮本憲一(大阪市立大学名誉教授)

:小山仁示(関西大学教授)

:宇井純(沖縄大学教授)
コーディネーター :芝村篤樹桃山学院大学教授



シンポジウムは、主催者のあおぞら財団・森脇君雄理事長のあいさつに続き、 芝村篤樹桃山学院大学教授の巧みなコーディネートによって進められた。

公害・環境問題に取り組んだ動機は?

芝 村:日本の近代化の始まりを明治維新とすれば、以来、130年余り経っているが、そういう歴史の中で、公害あるいは環境問題というものがどういう役割、意義をもっているのか、あるいは公害、環境問題を見ることを通して日本の近代の歴史の課題や問題点を明らかにすることができるのか−を考えていきたい。合わせて日本の環境問題の現状と未来を考えてみたいというのがきょうの主テーマだ。講師の3人の先生方が一堂に会することはこれ自体が歴史的出来事と言っても良く(笑い)、先生方には自らの公害問題、環境問題に取り組まれた動機などからお話いただきたい。


四日市−健康福祉を破壊する地域開発を見て怒り、公害問題に取り組む

宮本 憲一さん
宮本 憲一さん
宮 本:専攻は財政学であり、財政学者を任じていたが、なぜ財政学者が公害問題や環境問題に取り組むようになったかと言うと、日本は1950年代の終わりから60年代にかけて高度成長時代に入るわけだが、その先端を公共事業を中心にした地域開発という事業を進めていた。今もまったく同じようなパターンだが、日本の財政はすっかりこの地域開発を中心とする公共事業によって動かされることになった。そして、この地域開発の先端を走っていたのが四日市だった。四日市では1950年代に旧海軍燃料廠の跡地を使って東洋最大のコンビナートの建設が始められた。 そして、57、58年ごろから海で臭い魚が獲れるようになり、59年か60年代になるといわゆる四日市ぜん息という公害が発生するが、これを当局は秘密にしていた。ところが、61年に地元の自治労がハワイ大学医学部と三重県立医科大学が共同で研究していた「コンビナートが公害の原因である」という調査結果を暴露した。非常に衝撃的だった。

私はそれで地域開発の状況を調べるというつもりで四日市に入り公害問題にぶつかった。地域開発というのは本来、その地域の住民の福祉を向上しなければいけないのに、健康被害を出し、自然破壊をしているという事実を見て、これは今までにない、私たちにとって重大な問題と思った。経済学者としてその時衝撃を受けたのは、美しい四日市の海岸の白砂青松をよく知っていただけに、それを埋立ててコンビナートが出来ていたわけで、あの美しい海岸がなくなったということは経済学で評価できない。経済学で言えば、自然というのは資産としてゼロだが、埋立てて工場用地が出来ると、 それはものすごい大きな資産として計上される。それと、白浜病院へ見舞いに行くと、苦しんでいる患者さんの多くは年寄りと子供だ。そうすると、年寄りと子供は企業に雇われているわけでもないし、国民経済の上で国民所得を生み出しているわけではないから、この人たちがどんなに苦しんでもゼロだ。一方では病院にかかると医療産業は儲かるわけだし、薬局で薬を買うと医療産業、医薬産業が儲かる。GNPは上がることになる。

これが私にとっては、経済学というものを基本的に見直さなければならない。つまり、地域開発という事業そのものが住民福祉を破壊するということだけではなくて、 その評価ができない経済学というのはどうしても考え直さなければならないと思ったのがそもそもの話しで、ここまで、恐らく死ぬまで(笑い)環境問題につかることになると思う。そういうことがきっかけだった。その頃は公害に関する経済学の文献は少なかったので、衛生工学で世界的に活躍されていた庄司光先生と64年に『恐るべき公害』という本を出したのが公害問題への踏み込みということになる。


大阪市長自慢の住宅環境に入居した途端に高速道路計画聞かされ反対運動に

小山 仁示さん
小山 仁示さん
小 山:私は、中津コーポ高速道路に反対する会を結成し、それが大阪における道路公害反対運動になっていったが、事業の公益性とか公共性という錦の御旗の下に人間の健康とか環境が破壊されてきている。そして、公害という、当然防止すべきなのに手を打たない国家とか地方自治体の在り方に対する攻撃が大きな問題になっていると思う。どういうことかと言うと、私は大阪市住宅供給公社が建設し、当時の中馬市長が"良い住宅環境"と自慢した中高住宅に入ったつもりだったが、入るや否やたった10メートルのところに6車線の高速道路を作るんだという話しが耳に入った。 1日の走行車数12万台という。そんなものが住居に価するのかと思い、立ち上がった。明治以来、日本の政府が住民の意見を聞いて道路を変更するというようなことは1度もないということを聞いて、なるほどそうやろなと思いつつ(笑い)。

しかし、どう考えても不条理な話だと思い、868戸の小さな集団住宅で、名も顔も知らなかった人間同士がいろいろ議論し、宮本先生の『恐るべき公害』を読み合ったり、宇井先生が座り込んでつかまって(留置場に)放り込まれた話などを読ませてもらって、あそこまでやらねばならんのだと思い、私は日本近代史・現代史が専攻だが、 住民運動にまとまっていったというのが、公害問題に接し始めた動機であり、今日もその延長線上にある。


水俣病で伏せる12歳の少女の寝顔を見て原因究明を誓う

宇 井:私は、小さい頃、水戸とか栃木などの北関東で育った。後で知ったことは足尾鉱山が近く、 まさに公害の原点に近かった。1970年に宮本先生たちと一緒に足尾鉱山に見学に行ったのが社会科学者がまとまって 調査に行った最初だろうと思う。しかし、開拓農民の子として育ったために、化学肥料の有難さというか、 ほんの一掴みで見事に草の色が変わってくるという素晴らしい効果があるということを体に刻みつけられたものの、 非常に高い。ただ、化学式を調べてみればおよそ原料はただに近いはずだ。なぜこんなに高くなるのか、 ということに疑問を持って、農民がもっと肥料を安く手に入れられるように勉強したい、ということで東大の応用化学に入った。 しかし、大学に入ってみると、高校時代に全然習わなかった経済学というのがあって、資本とか利潤とか労賃とかの 概念を教えられ、やはりただで肥料が出来るわけがない。見合ったコストがかかることが分かり、 それで化学肥料をただにしようという考えは止めた(笑い)。

しかしその後、生活に入ってきたのが農業用ビニル というもので、これは技術的にも新しいもので、結局、卒業して日本ゼオンという塩ビメーカーに就職し、 大阪にも赴任して神戸の長田町界隈などで営業をしたことがある。3年余り勤めて、企業勤めは潮時と思い、 大学に戻って少ししたら、九州の水俣で水俣病という大変恐い病気があって人が死んでいる。その原因が噂によると、 工業排水だという見方もあるということを聞いた。日本ゼオン時代、水銀を使い、使い終わったのを海に流した 経験もあるので思い当たる節があった。ひょっとすると、自分の流した水銀でそういう悪い病気が起こるのではなかろうか、 いわば加害者としての意識から調査を始めた。
宇井 純さん
宇井 純さん

しかし、戻った大学でプラスチックの研究を始めたものの、 応用化学ではこれ以上勉強する場所がない、もう少し違うところはどこかと探してみると、医学部の衛生学、 公衆衛生学、それから土木工学の上下水道というところがあることが分かった。しかし、医学部の公衆衛生学部は 実はチッソから金をもらって水俣病のもみ消しの研究をやっていることが分かった。そんな恐ろしいところには とても行けないということで土木に転科して、上下水道の実験を始めたというのがこの分野に足を踏み込んだ動機といえる。 それで60年に水俣へ行き、患者さんの間を回ったが、中に忘れもしない12歳くらいのきれいな女の子がいて、 目も見えない、意識もない、3歳から寝たきりだった子のベッドの脇に立って、一体何をしたらこういうことが 起こらないようにできるのだろうかと考えた。それにはまず原因を突き止めなければならないだろう。 なんとか原因を突き止めよう。そして、こういうことなんだということを知らしめようと思った。

それ以来、水俣病から始めて日本の大方の公害に取り組むことになってしまった。 その中で、カトリックの神父から歴史学者になったイワン・イリッチという人を水俣に案内したり、 沖縄に案内していろいろ議論したことがある。彼が言うには、支配者側の学問というのは必ず非歴史的である。 目の前にある問題をとにかく切り抜ければいいだけで、歴史的根拠なんか調べる必要はないのだ。 ところが、非加害者、被害者の立場の学問はどうしても歴史性をもってくる。これには、思い当る節があった。 1970年が第一次公害ブームと言われる年で、社会科学者も自然科学者も多くの論文を書いて、 それをおそらく1年間に800くらい読んだ。読んでみて丸っきり時間の無駄だったというのが8割から9割だった。 読んでそれなりに教えられたというのが1〜2割だった。で、教えられるものは必ず歴史に触れている。 その中での科学者としての自分の責任に触れている。その二点に触れていない論文というのは終わりまで読んでも 結局何の役にも立たない。イリッチの言ったことはなるほど本当だと思い、私も歴史から勉強しなければならないと思い、 歴史の重要性について実感した。


公害研究にとって歴史とは?

芝 村:それぞれの立場から話してもらったが、三先生はいずれも現実の問題、運動と関わってきただけに説得力ある話しだった。そういう意味で、次は公害研究にとって歴史研究の意味、重要性というテーマで伺いたい。歴史学者の小山先生から。


日本の近代史分かるには公害問題研究が不可欠

小 山:近代国家・日本とは、ということを考える時、公害問題との関わりははずせないと思う。私は、近代社会とは産業革命によって始まったと考えており、日本においては1900年頃、いまから100年前の時だと思う。足尾銅山、別子銅山の企業側からすれば成功した例があるが、公害問題という観点からすると大きな問題だったことは周知の通りで、そういう中で別子と比べると小さな問題と言えるが、西淀川という狭い地域の公害問題ということから調べていたら、大阪製錬所という問題があって、農民たちが裁判に持ち込んで、途中権力も介入してくるが、結局は和解に持ち込んで和解金をもらった。公害闘争とは徹底的にやらなければいけないと思った事件だった。そういう面で公害問題を勉強しなくて日本の近代史が分かるはずがないという信念を持つに至った。

そして、個々の問題に入っていくが、いまでこそ道路公害なんて言葉を裁判所でも使ってくれるが、私たちが運動を始めた頃はあれは道路公害などでなく、車公害である。車さえ公害を発生させなかったら道路は素晴らしいものだと言われた。違う。道路を置くから車が走って公害問題が発生するんだ。工場を作って機械を置くから公害が発生するんで、機械だけだったら誰が機械公害なんて言うか、というような喧嘩をしてきた(笑い)。どういうことかと言うと、はやり歴史がなせる技と言える。 それにしても、98年5月に、その年の歴史学研究大会が開かれた時、噛みついたことがある。そこに宇井さんを報告者の一人として招いた。私に言わせれば25年遅い。要は、この研究会はやっと今頃になって公害=環境問題の重要性を認識したわけだ。


学者として初めて証人に立ち公害史研究の重要さ悟る

宮 本:宇井さんが紹介されたイリッチの言葉は、私も非常にいい言葉だと思う。被害者または市民というのは歴史というものを尊重しなければいけない。歴史の中から未来というものをみつめなければいけないのだと思う。 1967年に四日市で公害訴訟を起した。このとき、原告側の証人として出廷することになった。原告側が学者を証人に出すというのは実は初めてのことで、裁判所も困って鑑定人ではどうだとも言った。しかし、それ以後は珍しくなくなったが、最初だったもので、とにかく反対尋問もすごくて途中で胃が痛くなったりした(笑い)。その時に何を最初にやろうと思ったかというと「責任の問題」だった。企業がすでに歴史的に繰り返していることをちゃんとやらなかったというのはきわめて重大な責任だと。企業側は、亜硫酸ガスによる公害は初めての経験だ。これまでは北九州の石炭をたいて煤塵による被害というのはあっても石油を燃料とするもので、そんなに大きな問題はないなずだという主張をしてきた。 それで私は亜硫酸ガスの公害事件を明治14年に遡って調べ、列挙した。その中で住友金属鉱山は半世紀にわたる農民の反対運動にあって、当時のお金に直して100億円を越えるような賠償金を出し、同時に世界で最初の排煙脱硫に成功するという画期的なこと、前例のないことをやった。一方、日立の鉱山では156メートルの世界最高の煙突を作って、気象観測をやって拡散することに成功した。そういう事例があったわけで、戦前に公害対策の原理は分かっていたのではないか。それを戦後のもっとも最新の技術を導入したと言われるコンビナートはその経験に学ばなかったということを突いた。それが効いて、歴史的に見て責任を果たさなかったということが裁判所側にも重く受け止められたわけで、歴史の重さというものが現実に効果があるということが良く分かった。

しかし、私の公害史の研究は不充分であったことをその後知らされる。実は、大阪に大阪アルカリという会社が戦前にあった。これが亜硫酸ガスを排出し、付近の農民に非常に大きな害を与えて、農民が提訴した。大阪控訴院(今の高裁)は画期的なことだったが、農民勝訴の判決を下した。公害裁判上初めてのことだと思う。ところが大阪アルカリは上訴して大審院(今の最高裁)に控訴した。大審院は化学工業を発展させたいと考えていたので、控訴院の判決は気に食わないので差し戻した。やり直しの判決の時に大審院が出した判決は「それ相当の設備をしていれば責任はない」というものであった。つまり化学企業がかりに有害物を出していてもそれ相当のことをしていれば責任はないというものであった。 ところが当時の控訴院は立派で、差し戻しの判決で「それ相当の設備」という解釈を変えて、「日立に156メートル煙突あり。それ相当というのは世界最高の水準の設備というべきだ」という解釈にしてしまった。大審院の「それ相当」の解釈は普通にやっていれば良いということだったが、それをひっくり返してしまって、罪ありとし、原告側の勝訴にした。

そのことで私は多いに慌てる経験をさせられた。ある時、NHKのプロデューサーが「大阪アルカリってどこにある?」と言う。知らなかった。直ちに法務局へ走って調べたら、大阪アルカリは1942年になんと石原産業と合併しているということが分かった。実は、四日市裁判で一番うるさかったのは石原産業の弁護をした大塚という弁護士(後に最高裁の判事になった)で、「大阪アルカリの判決を知っているか。それ相当の設備があればいいというものだ」という主張だった。まさに後の祭で、裁判当時、大阪アルカリが石原と合併した事実を知っていて、それを指摘したら大塚氏は腰を抜かしたと思うが、それは私の歴史の研究が足らなかったということに帰するわけだ。それ以後は学生たちに 自分が入る会社についてはまず社史を読み、歴史を調べろといっている(笑い)。歴史の重要性についてつくづく感じた経験であった。


どのような立場で公害問題に取り組むか?

芝 村:宇井先生はさきほど被害者の立場に立って考えることが重要だと指摘された。その点を含めて伺いたい。


日本の政党は不勉強。日本政治は人民をこけにした

宇 井:我々が公害に気づくのは被害によってなので、そこから出発しないと全体像が見えないというのはごく当り前の話しだ。

日本の公害、環境問題になにが必要か−を考える時、まず政治の世界に代表を出せないということを考える。それには革新政党が出てきたではないか。戦後、いろんな政党が被害者の側に立って政治をやったではないかという議論が出てこよう。しかし、明らかに戦後の日本の政党は公害問題に関しては勉強しなかった。日本に入ってきたマルキシズムというのはまずロシアの皇帝ツァーリズムの下で徹底的に弾圧され、鍛えられて強固な秘密主義と権威主義を身につけた。それが戦前日本に輸入され、日本共産党はこれまた非常に堅い秘密主義と権威主義と一般の民衆運動を下に見るような傲慢な体質を作ってしまった。それをまたミニュチュア的に真似たのが日本社会党だった。社会党が勉強しなかったということはみな知っており、私の独断とは思わない。 ただ、日本共産党が宮本先生のような好意的な立場に立つ学者がいながら、共産党の公害政策の中にほとんど宮本先生の研究成果は取り入れられていない。。今でもそうだということへのやり切れなさと、戦後の民衆運動をいかに日本共産党が引きずり回し、ぶち割ってきたかという歴史を私たちの世代は知っている。そのことに対する一定の詫びもないし、私は日本共産党の責任も問わざるを得ない。戦後も日本の人民は代表すべき政治家を持たなかったというのが戦後の悲劇だと言える。後から出てきた公明党は、後から出てきたので何か見つけなくてはならないということで60年代、70年代必至になって公害問題を追いかけてきた。その後の情勢の変化によって今では与党の一角になって、昔やったことなんか知らないよというような顔しているが、こういうふうに公害の発生源である大企業から政治資金を得てきた自民党はもちろんのことだが、日本の政治は徹底的に人民をこけにしたということを申し上げざるをえない。

また、三島沼津コンビナート反対闘争の中で高校教諭たちの研究の中に「西から来た学者は信用できないが、東から箱根を越えて来る学者は嘘をつく」という評価がある。これは主として東京大学に集まった、中央政府の権力と結びついた、この場合は黒川委員会という公害問題に関する日本最高の権威を集めたと言われる集団の挙動を指しているが、我々も東京にいるとどうしても東京を中心にモノを考えるようになってしまって、実際には1960年代の後半には私自身も関西の公害運動、水俣もそうだが全体の歴史を理解する時にどうしても関東が先になってしまい、関西が弱いという傾向は否定できなかった。これは私自身の失敗でもある。

ところで、未来に向けて学者が何をするかという問題だが、フィリピンの歴史学者であるレナード・コンスタンティーノ・ジュニアという人と1976年にインドで開かれた国際会議でたまたま同室した時、酒を飲みながら議論したが、西欧で歴史学とか社会学を学んだアジアの知識人はアジアに何をすべきかをいつも考えるということを聞いて、その時私にはすぐ答が出せなかった。ずうっと考えていた。やっと、中間的な答として"経験の行商人とそれを表現する旅役者を兼ねるようなもの"ということに至った。公害というマイナスの経験をどのように必要とする場所に運び、どのように相手に伝えるかというのが知識人の役割ではなかろうかと考えるに至った。 その一つの手本が実は大阪にあったと私は思っている。50〜60年代大阪にいた頃に市立大、市立工業試験所の二つがとくに高分子化学の分野で零細企業のためになるような研究をずうっとやっていた。井本稔という先生がおられたが、井本先生の講義をもぐりで聞くと、零細企業のおやじさんたちは何か飯の種を得られた。大阪市立大というのは正に市民の大学として機能してきた歴史がある。要は、技術者、科学者が社会とどう付き合えるかということを考える時に、しばしばこの50年代、60年代の大阪のこのケースを思い出す。大学はいかにあるべきかということの一つの手がここにあると言えよう。

ところで、環境保全技術の一つの決め手のように使われている下水道というのがいかにインチキなものであるかについて触れておきたい。外国から導入したものを良く分かりもせずに、ゼニ儲けのために適当に変形して作りまくって、年間何兆円もの税金を食うという、正に財政学のやっかいものだが、実は去年、日本下水道事業団開発部の名の元に、酸化溝技術に関する報告書というのがまとめられ、送ってきたので一晩かけて読んだ。腹が立って眠れなかった(笑い)。これは東京大学の下水道の先生とか建設省とかおよそ今日本で一番下水道に詳しい専門家と言われる人たちが集まって作った報告書だが、まったく無意味、無価値の報告書としか言いようがない。日本の腐敗はここまで進行しているのであり、これも歴史的にはっきりしなければならないと考えている。そういう中で、市民は市民の技術の評価を持たなければならない。技術そのものは専門家に説明させてもいいが、市民に分かるように説明させる義務はある。それで市民は考えて、たとえば府なり市なりが予算をどこへ振り向けるかを考えればいい。 実は、近く東京でそのことを発表しようと準備を進めている。 若干きょうのテーマとはずれるかもしれないが、社会的現象としての科学技術があって、それはその時その時の情報によって受け入れられ、あるいは振興される。日本の場合はゼニになるからということで振興されたが、ゼニになるということと水をきれいにするということはまったく関係ない。ところがむしろ水をきれいにするという目的に対しては退歩になるというようなことがゼニになるという一言で説明がつくのではないかと思うことがある。もっとも、公害もゼニになるというご時世になってきたが…。

                                

(つづく)