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【特別寄稿】

「写真家が見た水俣病事件」



【寄稿:芥川 仁】  (日本写真家協会会員)


芥川仁 写真集「水俣 厳存する風景」
「水俣 厳存する風景」
 私の手元に水俣病事件に関する九冊の写真集がある。
 五人の写真家が時を越えて、同じ水俣病事件に取材した写真集を読むことで、写真家は何に触発されて仕事をするのかを考える。

 最初の写真集となった「水俣病」のために桑原史成が、水俣を訪ねたのは一九六〇年。水俣では九州の小さな漁村の「奇病」といわれた時代が過ぎ、新日窒株式会社(当時)水俣工場の排液に含まれる有機水銀が、原因と疑われ始めていた。しかし、公的に原因を特定できないまま、前年暮れに結ばれた「見舞金契約」が効果を表し、患者の補償要求は鎮静化していた。一方、不知火海沿岸漁民総決起大会の後、漁民が水俣工場内に乱入する事件があるなど、社会の目は漁業補償に向いていた。

 「水俣病」に登場する患者は、肋骨が浮いて痩せ細り、ほとんど裸で横たわる男性。発作を繰り返し病院の廊下に座り込む女性。おしめを腰に当てた男性など、その症状は目を覆いたくなるほどに悲惨である。曲がった指、もがき引っ掻いた跡を残す病室の壁。それらが、水俣病の症状の深刻さを強調する。多くは、現役の漁師が一夜にして急変した急性激症型といわれる患者たちだ。
 桑原は「酷使され搾取されている労働者、生命を奪われ生活権を脅かされた漁民たちは同じ被害者である」と序文で書いている。その背後に、安保闘争や三池争議を闘う労働者に対する共感があるのは、六〇年代という時代の反映と若さが持つ正義感だったろう。

 桑原のもう一つの主題は、不安と貧しさである。生活のために密漁をする漁師。土間にゴザ一枚を敷いて、ほとんど裸で寝る子どもたち。漁業補償を求めて市役所に陳情する不安な表情の水俣漁協の幹部たち。誰もが塞ぎがちだ。
 畳み掛けるように悲惨と貧困を強調する桑原は、水俣病を「資本の利潤追求と日本的な産業構造の中で今後も必ず起こる産業公害」と位置付けた。「告発」という社会正義に燃えていた彼は、レンズの向こうの患者たちに手が届きそうに近い位置から撮影している。桑原の肉体的エネルギーが写真のエネルギーにもなっている。そんな近接撮影を患者たちが許したのは、桑原が天性として持っている無邪気さの故だ。

 八年後、七三年に塩田武史が写真報告「水俣-深き淵より」を出版。W・ユージン・スミス、アイリーン・M・スミス夫妻の英語版写真集「MINAMATA」は七五年に出版されている。  塩田は自らの仕事を、患者やその家族との「出会いの記録」という。それだけに「深き淵より」に登場する多くの胎児性水俣病患者は、症状の悲惨さだけでなく、日常の断片の中で見せる塩田への親しみを感じさせる。彼は水俣に居を構え、同じ地平から患者を撮影した。個人的な仕事なのだ。塩田は何者であるのか。写真集では、初めて水俣を訪ねた六七年に、彼は学生であったと分かるだけだ。
 「変色した新聞の切り抜きを手に」塩田は初めて胎児性水俣病患者と出会う。そして「水俣でのやりきれない体験」が、彼を今日まで、水俣に繋ぎ止めることになった。

「深き淵より」には症状の深刻さや患者の闘いを伝える社会的な役割と塩田の私的な出会いが混在する。それは、加害企業チッソ(株)に闘いを挑む患者たちを支えたい思いの反映だろう。熊本地裁の判決を間近に控えた時期に出版された写真集の宿命である。

 W・ユージン・スミス夫妻が水俣に滞在した七一年から七四年は、損害賠償を求めて訴訟をおこす一方、チッソに直接交渉をするなど、患者の闘いは止まれぬ激しさを増していた。世相としては七〇年安保や大学紛争の余韻が残り、公害列島といわれるほど全国各地で産業公害が問題化していた。患者の闘いを支援する市民グループ「告発」が全国に誕生し、労働組合に替わって水俣病患者の闘いを市民運動が支えた。

 「MINAMATA」は、文章と写真が織り成す物語になっている。「愁」という文字で括る序章は、漁師が「海はおるが身体んなかば流れよる血いたい」と言い、逃れようのない海との繋がりをつづる。そして、その不知火海から恵まれる魚が原因となった「奇病」に対する漁師の苦悩。物語の鋭い矛先は加害企業チッソに向けられる。しかし、平穏を装いチッソをかばう水俣市民や行政の仕組みが、水俣病事件の孕む多面的な内情を感じさせる。撮影の際のエピソードや患者ひとり一人の人生について、ユージン・スミス夫妻は自らが語り部になり読者に語りかける。すると、そこに添えられた写真が深い意味を帯びて動き始める。特に「怨」の文字で括られた二章は、行政とチッソに対する患者の闘いが、まるでドラマを見ているように臨場感を伴って迫ってきた。患者は、長い自主交渉の末に補償協定をチッソと結ぶ。しかし、これで患者の苦悩がなくなったのではないと言うかのように、あの上村智子さんを入浴させる母子の写真に導かれるのだ。

 ユージン・スミスは序文で「状況はじつに多くの位相を持っていて、厳密に年代順の物語を拒む。だから私たちは、場と空気を、舞台を設定し、それから人間の物語りと出来事のあいだを往き来することにした」と述べている。つまり、彼はあらかじめ決められた方法で現実を切り取るのではなく、複雑な事実に真っ正面から付き合おうとしたのだ。それは、写真と文章が織り成す物語となって、初めて可能な仕事である。
 水俣病事件史のなかで最も劇的な時期に水俣を取材したユージン・スミス夫妻は、世界的に著名な写真家が到達したフォトエッセイという手法で、水俣病事件のもう一つの宇宙「勇気と不屈の物語」を創りあげた。

 七三年七月、チッソが患者団体と補償協定を結んだことで、水俣病事件は終わったと一時期は誰しも思った。しかしその後、被害は対岸の天草にまで拡大していることが明らかになり、認定申請患者が急増した。認定審査作業は遅れ、行政の怠慢が指摘された。熊本県議が「申請者にはニセ患者が多い」と発言するなど、十万人とも言われる潜在患者の存在が、新たな課題として浮上したのである。患者の闘いは、国や県が相手となった。水俣病事件はまた新しい局面を迎えたのだ。

 新しい局面の主役、未認定患者の存在を伝える写真集が拙著「水俣・厳存する風景」である。その後、桑原史成「水俣・終わりなき三〇年-原点から転生へ」、田中史子「生(いのち)四〇年目の水俣病」が出版された。
 桑原はさらに「日本の公害・水俣」「水俣の人びと」と新たな取材を加えている。彼は、二十九歳の時「水俣病」のあとがきに「私は終生、この水俣病をみつめたい」と書いた。その時すでに、還暦を少し過ぎている彼の一生が決まっていたように思える。

 水俣病発生の公式確認から四十五年。その間に、水俣病事件は終わったといわれる節目を何度も迎えた。その都度、写真家は事件を嗅ぎ付けるように水俣を訪ね、手に負えない被害の深刻さに打ちのめされながらも、時代を写真に残した。これらの写真集を読むと、患者を前に「何もできない」と悩み、小さな役割でも果たせればと自らを奮い立たせる健気な写真家の姿が浮かぶ。


 水俣病事件が今後も、時代に新しい課題を投げかける限り、写真家は時代を嗅ぎ、水俣を訪れるに違いない。そう言えば、塩田武史が再び「水俣」の撮影を始めたと噂を近頃聞いた。






 
●あくたがわ・じん
  写真家。 1947年、愛媛県生まれ。
  66年、宮崎県立南高等学校卒業。
  70年法政大学第二社会学 部卒業後、伊豆大島、水俣を経て、80年9月より宮崎に在住。

〈主な受賞〉 『輝く闇』で第2回宮日出版文化賞受賞(1992年)

〈主な写真展〉 「6・3制夜間中学の顔」(1972年/銀座ニコンサロン)
「水俣・厳存する風景」(1980年/銀座ニコンサロン)
「土呂久鉱毒追想」(1985年/銀座ニコンサロン)
「植物の記憶」(1987年/宮崎山形屋特設ギャラリー)
「輝く闇」(1992年/福岡市美術館特B)
「屹立する神々」(1995年/由布院空想の森美術館・フォト館)
「四十六億年の囁き」(1998年/宮崎ギャラリーサイト)

〈主な著書〉 『水俣・厳存する風景』(1980年/水俣病センター相思社)
『土呂久・小さき天にいだかれた人々』(1983年/葦書房)
『輝く闇』(1991年/葦書房)
『銀鏡の宇宙』(1995年/海鳥社)

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