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| ――― 略歴を拝見して、戦後の沖縄のあらゆると言っても過言ではないほど多方面の運動を引っ張ってこられたことがよく分かりましたが、一つだけ"?"という感じを受けるのが青山学院へ進まれたことです(笑い)。まずはご自身の生い立ちを振返っていただきたいのですが。 | |||
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福 地 ボクの生い立ち? そりゃあ、大変なものですよ(笑い)。細かくは略歴を見てもらうことにして、自分なりに自分がこれまで生きてきた中でのポイントをお話しましょうか。 なにせエッジドマン(境界人)だから(笑い)。
――― お生まれは大宜味村の喜如嘉(きじょか)ですね。いまでは芭蕉布で有名な…。 福 地 そうです。地図を見てもらうと分かるけど、東シナ海に面し、ヤンバル地区のふもとという感じの所です。三方が山に囲まれていてね、一方が海。だから、山の風・海の風の調和するところで、故に長寿の村になっている。 世界一と言っていいのでは。海藻類をよく食べ、魚なんかも手で取って食べましたね。それでそういう地形がロマンチストを生んだのではないかな。進学率も昔から高かった。貧しくても子供に学校だけはやろうという雰囲気が伝統的に引き継がれていたんですね。小さな部落なのに、確か十数人も博士を輩出していますよ。 それからねえ ブナガヤーがいるんだよ、河童が(笑い)。芭蕉布の里でもある。芭蕉布は戦前は沖縄のあちこちで織っていたが、戦争で壊滅し、戦後、平良敏子さんらが復活させて、無形文化財に指定されて皆さんに知られるようになった。私の母も94歳まで生きていたが、死ぬ寸前まで織っていましたよ。100歳超えても織っている人もいますよ。故郷自慢だったら負けないよ。どこにも増して愛する故郷ですよ。 | |||
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兄二人の戦死を知り嘆き悲しむ母の姿をみて「平和への心」が芽生えた
――― 戦争の時は? 福 地 14歳だった。もう一つ上だったら、戦争に取られていた。そうしたら多分戦争で死んでいた。在校中に予備兵の名簿に載っていましたからね。 ――― それでエッジドマン? 戦争そのものの記憶はどうですか。 福 地 喜如嘉自体は被害は受けなかったけど、昭和19年10月10日に那覇が大空襲を受けたために、喜如嘉は避難民を受け入れたり、そういう子供たちは都市人なんだが、われわれ田舎人が融合教育を実験させられたりしましたよ。それから、敗戦の直前だが、日本軍が陣地構築のためにヤンバルで材木を伐採したり、炭を焼いたりしたが、そういう兵隊の手伝いをしたことなどは覚えていますよ。 ――― その後ですね、お兄さんの死を知ったのは。 福 地 ボクは三男なんだけど、長兄は米軍が宮古島に上陸するとのことで千葉県・館山の海軍兵学校から急遽配置されて戦死した。次兄は北海道で兵役に服したが、行方不明のままです。母の嘆きようはそれは凄かった。14歳で多感でしたからね、その時からでしょうね、戦争の悲しさとか平和感が生まれたのは。その時の思いがボクの今までを支えてきたと言ってもいいね。 | |||
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――― 戦争が終わって、沖縄のダメージは本土では想像できない惨状だったわけですが、福地さん自身はどんなふうに立ち直っていったんでしょうか。
福 地 喜如嘉行政区の小使いをした。捕虜などの面倒を見る仕事とか、米軍への説得など小さいながらも色々経験しましたよ。アメリカ側には可愛がられた。ボク自身は親米的になった。 ――― 英語を操った? 福 地 まあ、簡単に単語を並べる程度だったけどね。意思の疎通はできましたよ。可愛がられたことで米軍から食べ物や衣類の特配を受けていると随分ねたまれた(笑い)。 | |||
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初の男女共学高校へ。だが気になって勉学手につかず
――― 学校はどうなったのですか。 福 地 辺土名(へんとな)高校へ入った。沖縄で最初の男女共学でね、女学生が近くにいるので気になって勉強なんか手につかなかった(笑い)。黒板はベニヤ板、海からさんご礁のカケラを拾ってきてね、白墨にした。 昭和24年(1949年)に高校を出て、今の琉球大学の前身の「沖縄外語」に入った。180人しかとらなかったよ。なかなか難しかった。入学してからマラリアにかかり、高熱を発してね、3ヵ月も休学したりした。今で言うノイローゼにかかってね、世をはかなんで死の衝動に駆られたこともあったなあ。 でも1年だけで琉大に編入された。それでまず国頭(くにがみ)中学の先生になった。それから琉球臨時中央政府の主席事務局というところに籍を置いた。でも、みんな(琉大のような)植民地大学へは行かないといってね、アメリカか本土へ進んだ。それでボクも青山(学院)へ行ったんだが、本土で変なことが起った(笑い)。 基地闘争問題と後で言われるようになったが、内灘とか立川とかで基地反対闘争が起ってね、弁当もって馳せ参じた。そのうち、こんなぜいたくな勉強していていいのかなという気になってきた。東京で 瀬長亀次郎(せなが・かめじろう)とか 安里積千代(あさと・つみちよ)などと会った。年令的にはヤマトの学生より4、5歳上だった。 そこに、沖縄で「土地四原則問題」というのが起こって、夏休みに沖縄へ帰った。アメリカの VOAが国頭村にラジオ局を開設するために道路工事のアルバイトがあってね、1日1ドルだった。これを貯めて、東京へ戻ろうとしたら、なぜか自分とあと2人の学生のパスポートの許可が下りない。 8月末に米兵、通訳の朝鮮人、警官が家へ来て「早く出すから、東京の学生の動きを言え」と言う。要は、立川事件などで反対運動をしている学生たちのことを探りたかったわけだ。「貧乏学生だから、自分には(運動に関わる)余裕などない。他人のことなど知らない」と突っぱねた。それがたたった。 その後も宜野湾のG2本部で3時間の尋問を受けたりしたが、突っぱねた。そうこうしているうちに、夏休みは終わってしまう。焦れども出れない。とうとう学業を諦めてしまった。でもね、出征兵みたいに、喜如嘉を出るときはお金をもらったり、砂糖とか缶詰もたされたりして出てきているからおめおめ帰れないわけよ(笑い)。 | |||
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―― そうしたら後の福地さんの運命を決めることになるお声がかかった?
福 地 そうそう、家へ帰れんもんだから那覇の姉の所に居候していたら、東京へ来た時にお世話をして顔見知りだった喜屋武真栄(きゃん・しんえい。当時、教職員会事務局次長)さんがきて、「福地君、ちょっと手伝ってくれんか」と言われた。28歳だった。ほんのアルバイトのつもりがそれから定年になるまで、36年間も勤めるとは夢にも思わなかった(笑い)。当時一緒にいろいろやった人はほとんど逝ってしまった。 ―― それからですね、今日の福地さんの人生につながる路線が敷かれたのは。 福 地 そういうことになるね。まず反米運動を徹底的にやった。それでアメリカ側からは"トラブル・メーカー"というニックネームをつけられた。それでも毎日抗議に行くと連中と親しくなるし、お茶も出してくれたよ(笑い)。ボクは連中に「ポリシーに反対しているのであって、アメリカやアメリカ人は嫌いではない」と言っていた。いまも、その当時のアメリカ人とはつき合いがありますよ。 | |||
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―― 幼児体験的には親米的だったのになぜ筋金入りの反米派になったのでしょう?
福 地 これも実体験からですね。パスポートの発行を拒否され、CICの尋問を受け、自由を脅かされた。そして、そういう個人的経験だけでなしに、米軍の統治下で県民の生命、財産がことごとく軽視された。そういうことに対する怒りでしょうねえ。自らの力で自由を勝ちとりたい、基本的人権を守りたいという気持が強烈に湧いてきたんですね。それが、61年の沖縄人権協会設立につながった。 そうしているうちに、 教公二法問題が起こってきた。実はボクは促進派だった。なぜならば、当時、教員の給料は本土の教員と25ドルもの差があった。それを是正するチャンスと思っていたんだ。でも、文部省なんかぜんぜん動かない。そして、徹底的な反米運動につながっていった。 ―― その結果というか、これもあまり思い出したくないことかも知れませんが、67年3月29日、戦前戦後の沖縄において初めての 右翼による政治テロ事件に遭遇しています。傷痕はいまでも痛むのですか? 福 地 痛みますね。 後で振り返って考えると、尾行されていましたね。まあ、ボクの動きが目立ったんでしょうね。結局、犯人は4年の刑を受けたんですが、3年で出てきましたよ。その時、当局から「3年で出すけどいいか」って聞いてきました。「いいですよ」と答えましたが…。 | |||
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―― もう30年前以上になるわけですが、1968年11月11日に琉球主席の初めての公選が行われ、屋良朝苗(やら・ちょうびょう)さんの初代の選挙参謀として見事屋良さんを当選させ、以後はいろいろな選挙で劣勢をひっくり返して、ついには選挙の神様とさえ言われるようになりました。ところが、ご自身も一度だけ参院選挙に出て落選しています。このへんのことを振り返っていただけますか。
福 地 あまり振り返りたくないね(笑い)。ボク自身の選挙出馬は後にも先にも1回だけだけど、今の稲嶺知事のお父さんの一郎さんと参議院議員を争った。ボクは42歳だった。わずかの差でしたが、力及ばず負けました。周囲には「キミはまだ若い。(参議院は4年任期だから)あと8回も出れるよ。相手は最後のチャンスなんだから、1回くらい譲ってやれよ」と言われてね、向こうに同情票が集まった(笑い)。 その経験も生かして、『沖縄の選挙』という本も出したが、これがなぜか良く売れた。1ヵ月くらいでなくなった。ボクの本はそんなに売れないのだから、珍しいなと思って調べてみたら、自由民主党が買い漁っていたことが分かった(笑い)。いずれにしても、トラブル・メーカーから選挙の神様にあだ名がいつのまにか変わっていた(笑い)。 | |||
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| ベトナム反戦は戦争体験を生かして取り組んだ
―― 教組を辞められてから、とくに海外との連携のもとの平和運動というか、国際活動に力を入れられていますが、そのうちのベトナムとの付き合いについてうかがいます。 福 地 われわれの戦争体験をベースにして、ベトナム反戦運動も徹底的にやった。そんなことで、沖縄のテレビによく出たもんだから、ベトナム側がボクの名前も顔も知っていてね、沖縄ベトナム友好協会長としてベトナムへ行くと歓迎されますよ。今年(99年)も3回行きました。今、ベトナムでは130人くらいのベトナム人がドンアイの沖縄文化センターで日本語を勉強していますよ。 まあ、平和運動という偏ったものでなく、国際運動というふうに自分の中では位置付けていますが。 | |||
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―― 異常なほど多く、かつ広範囲にわたる肩書きをこなしてこられたわけですが、一体いくつくらいかご自分で分かるんですか(笑い)?
福 地 一番多かった時は40ほどだったのかな。いまは、10か20くらいだと思いますよ。自分で作ったのが多いので、自分でやらざるを得ない。 ただ、ボクは人に恵まれているというか、助けてくれる人たちがいつも本当に長い間手伝ってくれる。みなさん好意的だし、ここ (1フィート運動事務局)のビルのスペースなんかもオーナーが好意で貸してくれている。ありがたいことですよ。 | |||
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―― そろそろ今日的な話題に移りたいのですが、なんといっても普天間基地の移設問題ですが…。
議論不足。このままでは住民同士の対立は不可避 福 地 これまで嘉手納とか、ホワイトビーチとか二転三転していますが、普天間は老朽化していますから、アメリカ自身にとっても新たな基地を作らなければならない必要性に迫られているわけです。だから、アメリカ政府は実に巧妙です、日本政府に金を出させて作ろうという魂胆ですから。またまた歴史は繰り返すんですよ。(誘致派と反対派の)住民同士が血を血で流す自体は必至でしょうね。とくにこんどの場合はろくに議論させない、東京で(肝心なことは)決めている。ちょうど、さきに問題化した資料館問題と同じですよ。秘密裏にやって引っ込めたり、積極的に展開してみたり…。どうも同じような色彩を帯びてきていますね。 これから、ジュゴンの問題もあり、環境団体も激しく反対するでしょう。たとえ、やったとしても稲嶺知事の在任中にはできんですよ。基地問題は少なくても7、8年はかかります。かりにサミットの後に予算化されても、着手となると(反対派は)黙っていないでしょう。 もう一つは、アメリカは「15年」に同意すると思いますよ、過去の経験から言って。アメリカの海兵隊はいずれ帰ります。そうすると(その後を)自衛隊が狙っているんじゃないかな。自衛隊法では土地接収はできない、沖縄だけの特別措置法でできるのであって。アメリカに土地は取らせて使うのは自分だけが使うという魂胆じゃないかな。だから、一兆円もかけてやる甲斐があるんですよ、日本政府としては。アメリカは今ああ言ってるけど、そんなに長く海兵隊がいるはずはないですよ。 | |||
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―― もう一つは、兵器の発達を含めて戦略が変わってくるのではないでしょうか。基地そのものがそんなに多く必要ではなくなるのではないかと考えるのですが。
福 地 その通りですよ。もう、距離が遠いからとかは技術的にはクリアーされてますよ。沖縄に(基地が)できなければ岩国があるんだから。岩国から出動するとか、朝鮮半島とか、台湾海峡が波高しとなったとしても、アメリカは拘泥しませんよ。声を大にして言います。アメリカは、日本政府が強く出れば退きますよ。 | |||
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―― もう一つ深刻なのは沖縄の環境汚染が依然止まっていないということだと思いますが、どのように見ておられますか。
福 地 これにはまず県民の人たちに苦言を呈さざるを得ませんね。環境汚染についてあまりにも無神経です。代表的なのは養豚の悪臭。平気だし、川への垂れ流しもひどい。 そうかと思うと、ヤンバルに犬を捨てたりする。それが野犬化して、ヤンバルの動物を食い荒らす。ネコなんかも平気で捨てる。要は、公徳心というか、基本的なモラルに欠ける。ここがポイントですね。 もう一つは、結局は政府も民間も軍隊も「破壊」ということではやることは同じ。変わらない。インフラの整備と称して、ゴルフ場、石油施設、海岸線、地下文化財…、シュワブも日米両国で壊そうとしているんですよ。 ―― 沖縄の人たちからすると、自分たちだけじゃなしに本土資本が壊しにくるという受け取り方もありますが…。 福 地 海も山も空も、沖縄からすれば明らかに自分だけが壊しているんじゃない、海水浴場にしたってヤマト資本によって今でも汚染は続いているという認識はありますね。 それから、地理的な問題。海岸に打ち揚げられてるごみも相当なものでしょう。どうも、外からくる時、船は沖縄近海がごみの落としどころと思ってんだね。あとは、沖縄のこれらの関連の法律は、沖縄だからキメ細かくしなきゃいけないのに、反対に網目が粗いんですよ。この問題は、行政の弱さ、監視体制の甘さと無頓着なことが大きな要因と思いますね。 | |||
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以上が11月末の時点でのインタビューで話してくれたことだ。そして、1ヵ月後。12月23日、名護市議会は未明までもつれこみながら、これまでの代替基地建設反対の立場を翻し、普天間基地の「辺野古沿岸域への移設整備促進」を決議した。それを受けて、岸本市長は12月27日、受け入れを正式に表明、さらに翌28日、政府は閣議決定をした。 年が明けて福地さんに、電話を入れて、そういう新たな時点での感想を聞いた。ベトナムや東京からの来客のアテンドでゆっくりする暇はなかったそうだが、正月気分どころか、福地さんのコメントは辛口そのものだった。
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――― 年末、ギリギリに名護市議会は基地の受け入れを決議し、市長も正式に表明しました。予想されたこととは言え、そのような事態になって、改めて伺います。
ついに飲み込まれた。地元の混乱は避けられまい 福 地 "年内決着"という言葉に乗せられて、ついに大和オロチに飲み込まれましたね。本当は、知事と名護市長は、7月の沖縄サミット後に受け入れを表明したかったんです。急に政府が慌て出したのは、クリントン米大統領が基地(普天間)問題が解決しなければ沖縄へ行きたくないと言ってからです。まったく米国追従の典型的な見本です。 稲嶺知事の「苦渋の選択」、岸本市長の「これまでの人生でもっとも困難な選択」としても、移設を容認してしまった。振興策というアメに魅せられて60%反対の住民投票と県民の意思(世論調査)の結果を無視したわけです。 そのおかげで2年前の名護市の大混乱を再燃させてしまいましたよ。基地の規模や工法、運用について国からの説明はまったくなく、安全性、自然破壊等も不明のまま決断させられました。15年の使用期限や軍民共用は米国が拒否しています。政府の描いたシナリオに忠実に従ってしまいましたが、それを県民が黙っているはずがありません。地元では、毎日のように抗議活動が続いています。地元の辺野古には電話一本の通知だったために、激しい反発、怒りが燃え盛っていますよ。これから、住民同士の対決を生み出し、収集のつかない状態になり、サミットに及ぼす影響が表面化するのではないでしょうか。 とにかく、代替地を受け入れることは初めて新たな基地建設を容認することになるので全県民が許しません。 | |||
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―― そして、新しい1000年紀の幕が開きました。「これからの沖縄」についてどのようにお考えでしょう?
アジアへのかけ橋としてさらに発信したい 福 地 米国はキャンプ・シュワブの新海兵隊基地を40年期限使用を打ち出しています。戦後55年も長期に使用しておきながら、これからさらに40年居座るとは勝手極まりない。沖縄は"捨て石"にされ、十数万の県民が犠牲となり、戦後も米軍支配による重圧を味わっています。その深い傷を負ったままです。 沖縄はつねに自分たちの運命を外部から決められ、惨禍のみを残す苦難の歴史であった。しかし、それにも耐え、琉歌や琉球舞踊、空手、組踊りと独特の文化を創造してきました。 国際化時代、アジアに向けて沖縄がかけ橋となって、文化面で国際貢献することができる。75%の基地押しつけは日本ばかりでなく世界にとって損失です。 人間をスポイル化する基地から早く脱却したいですね。 そういう意味からも、いま改めて夢多き国際貢献と平和を発信する責務を痛感しています。 | |||
| ―― ありがとうございました。"沖縄の良識"として、ますますご活躍下さい。 | |||
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