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special interview

インタビュー 征子夫人に聞く ミニルポ ミニレポート プロフィール


ミ ニ レ ポ ー ト


《農民代表として市議へ立候補》


凛々しい顔写真、簡潔な文章。当時であれば「推薦」と表現したはずだが、「推せん」としているあたり、コピーライターのセンスもある
【1975年4月】
「このままでは周辺の農林業はへたってしまう。市議になりなんとか政策的にてこ入れしてくれ」という近隣の同業者たちの連日連夜の説得を受け、水俣市会議員に立候補した吉井さんのあいさつ状が残されている。

曰く「農民代表として市政に新しい血液を」。

曰く「多くの人々の知恵と意見を集約して市政の場に持込むことを行動の基本とする」など。

ただ、この瞬間には、まさかそれ以後、四半世紀以上も市政に関わるとは考えていなかったのでは? しかし、その時の基本姿勢、コンセプトは今年、市長を退任するまで一貫していたことには敬意を表さざるを得ない。



《内外に衝撃を与えた慰霊式での公式謝罪》


市長に就任して2ヵ月半。吉井さんが下した大英断は「市長としてまず謝罪する事」だった。それなくして、水俣病問題は前進しないとの堅い決心のもと、関係者間を走り回り、恒例の慰霊式に臨んだ。 当日、出席者の顔触れを見た時、国・県の代表者はもとより、患者グループからもごく一部のリーダーを除き、全代表が出席してくれた正に前例のない慰霊式となった。 ご本人は「淡々と読みましたよ」と言われるが、胸の高まり、声の震えを懸命に押さえ、式辞を読んだに違いない。その全文を紹介する。




〈水俣病犠牲者慰霊式 式辞〉
平成6年5月1日  水俣市長  吉井正澄


水俣病犠牲者慰霊式を挙行するにあたり、水俣病の発生によって犠牲となり、尊い生命を失われた方々の御霊に対し、謹んで哀悼の意を表します。

本日は、御遺族や患者の皆様方、環境庁、国会議員の諸先生、熊本県知事、熊本県議会議長をはじめ、関係市町の皆様方並びに市民多数のご臨席を賜り、誠にありがたく厚くお礼を申し上げます。

水俣病発生により、ある者はもだえ苦しみ亡くなり、ある者は今も意のままにならない身体を抱え込み、しかもいわれなき中傷、偏見、差別を受け、心身ともに悲惨な状況におかれました。 その苦しみをお聞きしますと、言語に絶するものがあります。又、御遺族の心情を拝察しますと、胸の詰まる思いがします。

当時の激烈な惨状を今振り返ってみますと、水俣市は奇病対策委員会の設置や明水園の設立など可能なことはしてきたといえ、市民でもある患者の苦しみを眼の前にしながら充分に役割を果たし得たのだろうか、 あの時こうすればよかった、こうしなければならなかったのではという反省の念を禁じえません。又、未だもって苦しんでおられる方々が今よりも少なかったのではと悔やまれてなりません。

水俣病で犠牲になられた方々に対し、十分な対策を取り得なかったことを、誠に申し訳なく思います。

あなた方の犠牲が無駄にならないよう、水俣病の悲劇の反省と教訓を基に環境、健康、福祉を大切にするまちづくりをさらに進めていくことでお赦しをお願いいたしたいと存じます。

水俣病の健康被害とともに、水俣にはもうひとつの悲劇が存在することとなりました。それは加害者も被害者も同じ小さな町に同居し、暮していたからであります。

市民は患者や家族の悲惨な状況に心から同情し、道義的な憤りを感じる一方で、「チッソ」が潰れると自分は職を失うのではないか、自分の店は潰れるのではないかなどと思い惑い自らにふりかかる地域の経済的、社会的破綻を極度に恐れていたことは否めません。

相反する問題を同時に抱え込んだ市民には、いずれに比重を置くか、いずれに荷担するかで、複雑な感情や葛藤が生まれ、患者とそうでない市民の心が離反し、患者も幾つかの団体に分かれるなど水俣は混乱の極みに達しました。

また、水俣病の原因が明らかになってくるにつれ、水俣市もあるいは又、市民も、「チッソ」の存続を国や県に要請する運動のほかは、水俣病問題の解決に果たせる本市の権限や役割が限られていたことや、中傷、非難、差別あるいは対立の中で市民は傷つくのを恐れていたこともあります。

市民のほとんどが、水俣病を克服しなければ水俣の発展はないことを十分に認識し理解していながら、「ではどうすればよいか」という判断をしないまま四十年近く過ごしてまいりました。

そのために、問題解決に向けた市民の合意は形成されず、水俣病問題の解決を今日まで延々遅らせ、市の沈滞をもたらした大きな原因のひとつともなりました。

この悲劇を乗り越え、この社会的悲劇をもたらしたものの克服なくして水俣の将来の展望は生まれません。水俣病の教訓を、外に向けて発信する前にまず水俣市民自らが受け止め、水俣の悲劇を乗り越える新たな地域文化を形成し、今までにない価値観に基づく地域づくりをなすことができなければ、水俣病による苦しみも悔しさも永遠に癒やすことはありえないでしょう。

水俣病を体験した私どもは、環境がいかに大切であるか、健康を守るのがいかに困難なものか、努力を必要とするかを知りました。このことから、人類自らが犯そうとしている地球環境破壊などの愚かな行為を防止するために、他に先駆けて「環境と健康はすべてに優先する」という基本理念から環境創造のための新たな実践を試みる責務があります。

水俣病被害者の救済は勿論のこと、水俣病で犠牲となったものの代償である水俣湾埋立地を、後世に誇りうる遺産とし、失われた環境を蘇生させ、傷ついた市民の心を癒し、荒れ果てた市民の連帯感を修復し、住む喜びと誇りの回復に取り組まなければなりません。

市民の中にも「きつかったですね、すみませんでした。知らなかったもんで」「あなたたちもきつかったんですね」という声が交わされるようになってまいりました。そんな変化へのとまどいや不安が交錯する中で、市民ともども新たに出発できるように、祈りと誓いを形にした石像をこの地に設置する動きも出てまいりました。

亡くなった方たちが浮かばれるように、己を織りお互いを認め合うという羅漢の和で、諸々の困難な事柄を克服し、今日の日を市民皆んなが心を寄せ合う「もやい直し」の始まりの日といたします。

そして、人間は自然の中の一員で、自然によって生かされているという考えに立ち、生と死の間を循環する動植物すべての命を尊敬し天地自然と調和していく共生の思想を真摯に受け止め、これからの時を心新たに刻んでいくことをお誓いいたします。二度と水俣の悲劇を繰り返さないよう広く内外に訴え続けてまいります。

最後に、犠牲者のご冥福を心からお祈りし、併せてご遺族の方々のご清福を衷心よりご祈念申し上げまして式辞といたします。              

【原文通り】



 
《著書類は発信の究極》

 ・ 『議員人生あれこれ』 (1989年/水俣旭印刷所)
 ・ 『続議員人生あれこれ』 (1993年/水俣旭印刷所)
 ・ 『離礁−水俣病対策に取り組んで』 (1997年/水俣旭印刷所)
 ・ 『愛しています水俣−水俣市長雑記帖』 (2000年/旭印刷)




トラクターで農作業をしている写真を表紙に使うなどレイアウトにも工夫をこらした。 中央は市民が水俣病にどう関わったかを明らかにすることを試みた『水俣市民は水俣病にどう向き合ったか』(2000年/葦書房)。吉井さんは市長として序文を書いた。
以上は吉井さんの出版記録である。


ご本人の述懐によると、若い頃から“書く事”は好きだったとか。事実、弁も立つが筆も立つ。したがって、市会議員に担ぎ出される際につけられた唯一の条件、「議員報告をする事」はそう苦にならなかったという。

それらが最初の著書の『議員人生あれこれ』に結びつき、さらに続編への運びとなった。そして、94年に市長に就任して以降、公約に掲げた水俣病問題解決へと精力的に動いた。 結果、市長として初めて慰霊式という公式の場で謝罪し、それを機に村山内閣の時に「政治決着」をみた。

「座礁して約半世紀。水俣丸はようやく離礁した。」とのプロローグで『離礁−水俣病対策に取り組んで』が生まれた。

吉井さんは、失礼ながら年令の割りに情報の発信の価値を十二分に知っている人だ。故に、常に発信し続けた。2000年に至り“水俣市長の雑記帖”として『愛しています水俣』をまとめた。

そして、『西日本新聞』の求めに応じ、「聞き書きシリーズ」に63回にわたって連載された「奈落の舞台回し」も吉井さんの“水俣史”および“水俣病史”として近く著書群に加える予定という。




《水俣病問題「政治決着」大詰めへの記録》

1998年8月2日、初めて村山首相と会い、「政治決着」を要望して以来、同首相とはその後も数回会談。一方、歴代の環境庁長官・環境大臣との会談は数え切れないほどだ。 いずれにしても「天の配剤に恵まれた」と、吉井さんは今しみじみと述懐する。


村山首相(左から2人目)に引き合わせてくれた田中昭一衆議院議員(右端)らに1市3町首長、患者団体合同で「解決の努力に感謝」
【1995年11月9日、首相官邸で】

石井道子長官(左端。座る人)
【1997年2月14日】


清水嘉与子長官(右)
【2000年4月5日】

川口順子初代環境大臣(左側3人目)
【2000年11月14日】




《スポーツでも活躍》

若かりし頃はスポーツ、とくに走ることではもって生まれた運動神経を発揮した。学校での運動会はもとより、市町村対抗駅伝でも活躍した。


リレー競技でバトンを受ける吉井さん(右から2人目)
収穫前の麦畑でなぜか駅伝選手のユニフォーム姿で




《新シンボルは“農作業に汗する吉井正澄”》


吉井さんの最新の名刺である。右上のイラストが何ともほほえましい。多分、ギャルに見せたら「かわいい!」と歓声を上げるだろう。得意な水俣市の職員の人がプレゼントしてくれたとか。 退任して、汗をかく対象は農作業ということだろうが、穿った見方をすると、緊急時におっとり刀(鍬)で駆けつける図をレイアウトした人はイメージしているのかも?…。

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