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special interview

インタビュー 征子夫人に聞く ミニルポ ミニレポート プロフィール


イ ン タ ビ ュ ー



吉井氏 水俣市内から車で30分ほどの山間部にある吉井さんの自宅を訪ねたのは7月の暑い日の午後だった。 気配を察して迎えに出てくれた吉井さんは顔色も良く、前日、満71歳になったとは思えないかくしゃくぶり。 左胸に昨秋、世界から注目された「水銀国際会議」のロゴマークが入った白いポロシャツのユニフォーム姿が若々しい。

インタビューは必然的に今の心境から始まり、吉井さんの個人史、そして市長時代の“秘話”から21世紀の水俣の構図にまで及んだ。終始、淡々と、しかも明快に答えてくれた吉井さんの表情は大仕事をやり遂げた満足感・充足感に溢れていた。 途中、外出先から戻られた征子夫人にも加わっていただいた。


インタビュアー:司 加人




今の心境は?

初めから2期・8年だったので「事去りて心したがって静か」
――どこの市長にも重責はあるでしょうが、やはり「水俣」の市長については社会的関心度はきわめて強いものがあると思いますし、とりわけ吉井さんは任期中に懸案の「解決」という段階に向けて具体的に動かれた実績を上げられたわけで、様々な評価を受けつつ、今、その重責を終えて半年。やり遂げたという満足感をお持ちだと思いますが、率直な心境、お気持ちから伺いたいのですが…。
吉 井: 私は、そもそも市長になる時、やらせていただけるのなら2期・8年やる。それ以上はやらないと決めていました。それで、助役−実は高校時代の先生でして(笑い)、当然、お年も上だし、体躯も立派で押し出しもよいので、よく市長と助役が間違えられました(笑い)−に2期・8年でやりたいことが5つあります、協力してくださいと言って就任をお願いしたわけですが、その5つの政治プランというのは、第1に、水俣病の救済問題を早期に解決する。第2は、内面社会の再構築をやる。 いわゆる、もやい直しです。第3が、水俣の将来像を明確に確立する。第4が、市民の意識の改革です。 自分たちでやっていける、賢い市民の育成です。そして第5が産業の振興、経済の浮揚というものでした。

過不足はありますが、これらの公約はほぼ実行した。2期で辞めると言った時に、まだやり残していることがあるではないかと言われましたが、それはきりがないんで、例え3期やっても同じことが言えるんです。大体、行政というのは3年や4年で出来上がるというものではありません。ちょっと大きなプロジェクトになれば計画から実行までは軽く10年はかかります。だから、もっとやるんだというのはいけない。それにしがみついてはいけない、というのが私の主義です。
退任式が終わった瞬間、まったく予期しないことが起こった。職員十数人が駆けより吉井さんを胴上げしたのだ。 前例のないこのハプニングに吉井さんへの職員の惜別の心情が表れていた
【2002年2月21日、水俣市役所で】

という理屈を言いましてね(笑い)、自分としては淡々とした心境で辞めました。辞める時のあいさつで、中国の『菜根譚』から借りて、「事去りて 心したがって静か」という心境だと申し上げた。実はこれは、「事去りて 心したがって空し」というのが正しいのですが、空しくでは分かり難いので静かと替えたんです。正直、そういう心境でした。

したがって、この後、水俣市がどうなるとかという心配はしません。私の仕事は終わったんだ、後のことは後の人がやれば良いという気持です。今後は文句はもちろん、注文もつけないし、増してや悲しみもしません(笑い)。ということで、辞めてみて良かったなあ、というのが今の偽らざる心境ですね。

一番良いのは、責任がないということでしょうかね。肩の荷が軽くなりましたね。それから、自分の時間が豊富になったという事ですね。しかも、それを自分で管理できるということです。今までは管理されていましたし、会いたくない人でも会わなきゃいかんし、行きたくないところにも行かなきゃいかんかったですからね。新鮮で、いい生活があったなあとつくづく思っていますよ。

―― これまでに心がけてきたことは?

吉 井: とくにはありませんが、長く持ち越さないということは心がけていました。ストレスの原因の一つはそれですからね。もちろん、眠れない夜も幾度かありましたが、とにかく長く持たないで、できるだけプラス思考するということは心がけましたね。

林業経営を行った理由は?

8人兄弟の長男。父の「大学は諦めよ」の説得に応じる
―― 略歴を拝見すると、農業高校で農業を学び、以降、25年にわたって農林業を自営され、かなりの実績を上げられたようですが…。

吉 井: まずですね、親父は農業を営んでいました。そして、ウチは8人兄弟でした。私は、その長男でした。ある時、親父は言いました。ウチは子供が8人だ。貧しい。 お前は長男だから、親父と一緒になって弟たちの学費を出してやろうじゃないか、と。そう言われると、(長男としては)そうか、と言わざるを得ない。 成績は良い方だったので学校の先生は大学へ行けと勧めてくれましたが、現実は厳しいわけで、それじゃあ俺が(進学を)諦めて、弟たちを大学へ行かそう。ただ、田舎から大学へ行かすのは二重の出費ですからね、学費と下宿代と。まあ、幸い弟たちは当時の教育大や東工大へ入りましたので学費は大したことはなかったんですが、下宿代がね…。大変でしたよ(笑い)。

それで、私は同じ林業をするにしても、小さい規模でもやっていける林業経営を目指した。当時、林業やるというと、まあ300町(約300万平方メートル)ないと自立できなかった。ところが50町くらいで自立しようというわけですから、相当なことをしなければ成り立たない。後で林業経営推進ということで農林水産大臣賞をもらうまでになった。

林業時代の後半ですが、林業経営のやり方とか、間伐の仕方とかでいろんなところから呼ばれて、講演もようやりました(笑い)。
小規模でも効率的な農林業を目指し、日夜研鑚した。農作業の合間の小休止の時も想を練っていたという

―― 高校時代に、その伏線がありますね。県の生物研究大会で優勝しています。
農業高校3年の頃は農業知識においてはプロ並みだった
【左から2人目が吉井さん】

吉 井: あれはですね、農事試験場の気象観測と病害虫の観測について、農業高校が言うなれば下請けをしてたんです。毎日の最低・最高温度、気象状況の記録、誘蛾灯に集まってくる害虫をすべて集めて、それを類別に分類して、集計した。それを毎夏の毎日、約4年間続けました。それを気象と水稲の病害虫の関係というテーマで発表しました。当時の高校生の発想としては断トツで、優勝しました。生物とか環境とかにすごく関心がありました。

政治の世界に入った理由は?

農業環境の悪化で周囲の強い説得に屈服
―― 農林業を25年経営していた方が、なぜ政治の世界に飛び込んだのか、このへんの真意というか真相は何だったのでしょうか。どういうことで市議に立つということに…。

背広にネクタイ、白手袋の選挙用の“正装”で走り回り、新人ながら見事に3位当選をやってのけた    【1975年4月】
吉 井: そうしているうちに、農業の環境が悪くなってきた。これは周辺で合併しなければ立ち行かない。
今でも保存してある当時の議会報告のファイルは吉井さんの原点だと言う
そのためにはお前が市議会へ出ろ、というわけで毎晩近隣の青年が押しかけてきて、私を説得にかかったんです。 まあ、弟たちも目途がついたし、それじゃあやってみるかということに気持が傾いた。ただ、唯一の条件として、議会報告を必ず出すこと−今で言う情報公開ですわ−ということがつけられた。 それで、とにかく片面のガリ版刷りで出しました。 銅版刷りでは金がかかりましたので(笑い)。当時は、議員が議会報告するなんてほとんどありませんでした。 議員報告そのものも珍しかったけど、私は単なる報告でなく、自分の意見・見解も入れた。1700世帯くらいに出しました。そのお陰かどうかトップから3番目で初当選しました。

これは、2回目以降の選挙には大いに役立って、楽でした(笑い)。お陰で、常に上位当選でした(笑い)。

公約は実行したか?

夫人に“最後の選挙”と言った後、市長選に2度出る
―― 「公約」を2度も破ったと反省する記述がありますが?

近くの神社で雨中、市長選への出陣式。現役の助役が対抗馬だったが、本人は内心自信があった 
吉 井: そう、実は“公約”を2度破ってるんですよ。といっても、女房との公約です(笑い)。市議の最後の選挙の時に、これでもう最後の選挙にしてくれ、と言われ、そう思った。それで彼女も最後だからと言って、それまで決して乗らなかった選挙カーにも乗り、街宣にも出てくれた。 しかし、その後市長選に、しかも2選したので、2度も一番身近で、大事な人間との公約を破ったというわけです(笑い)。

―― それじゃあ、その償いをこれからしなければなりませんね(笑い)。

吉 井: いやあ、させられてますよ。今、毎月のように出かけていますが、同伴でして、必ず前後に少し時間を取って観光したりしています(笑い)。

在任中のエポックは?

就任2ヵ月半の慰霊式で初「行政として謝罪」。世の中動いた
―― 在任中を客観的に振り返ると、水俣および水俣病をめぐるいくつかの事態を具体的に前進させたことは何人も認めるところだと思います。 話したり、書いたりされた中でもかなりの名言があり、エポック的なキーワードがあります。 例えば、「城主が起こした公害」とか、「患者を救済しなければならないのに加害者を先に救済する矛盾」とか、「市民同士の内戦」とか、「公害患者の認定の難しさを含めて矛盾と思考錯誤の連続だった」などなど枚挙にいとまがないほどです。 これらの中で、もっとも印象が強い事々はなんでしょうか?

吉 井: そう、一言で片付けるのは難しいですが、何と言っても市長になって最初の慰霊式で謝罪した事でしょうかねえ。就任して2ヵ月半でしたが、当選した時から、私はそれしかないと思っていました。 しかし、振り返ると、とにかく行政に対する患者さんや遺族の反感は筆舌に表わせないほどでした。正に敵対関係そのものでした。 当時のテレビやドキュメント映画をご覧になったらお分かりですが、市とはそれほどではありませんでしたが、県とか国とかに対する感情は本当に厳しかった。 そういう中で、水俣を再生しようとか、言い出す事すら難しかった。とにかく、何を言っても反対ですから。そこで考えたのは、まずはこの対決の構図を解消するのが先決だと。 それには対話することしかない、ということで、各団体の長、しかも一番やかましいところから行こう、と(笑い)。
国・県や各患者代表が見守る中で万感を込めて式辞を朗読。しかし腹を決めていたので淡々と読めた、と振り返る
【1994年5月1日、水俣湾埋立地特設テント会場で】

ちょうど選挙から就任まで3週間ありました。その間に回った。中には、まるで会話にならない人もいました。しかし、一回りして思ったのは、説得して相手を変えようとするのはそもそも間違いだ。 しかも相手は命をかけて主張し、命の主張だ。それにいい加減に、そろそろ止めないかなんて言えない。ならばどうするか? 相手が変わらないなら自分が変わる。そのことで相手にも変わってもらうしかない。 それしかない。まあ、私なりの悟りですわ(笑い)。

―― それで、様々な思いの中で謝罪に踏み切った。

吉 井: でもね、一方的に謝っただけでは意味がない。患者さんたちに、こういう趣旨で謝罪をしますよ、ということを根回ししなければならない。職員に文書・文案を持っていってもらって、説明した。すると川本輝夫さんなんか真っ赤になるほど直してくる。患者さんの会派によって違うし、表現については国や県にも遠慮しながらまとめあげた。

それまでの慰霊式は患者さんや遺族が参加しない、いわば「主なき慰霊式」だったんですが、別のところでやった田上義春さんを除いて全会派が出席してくれました。涙が出ました。正に世の中が動いたんですよ。これが動かんば私は辞任ものでした。国・県は反対だし、チッソ寄りの会派なんか散々でした。でも動いた。喧嘩しながらではあったが、なんとかまとまって和解で行こうという話し合いが出来た。

そして、何よりも大事だったのはチャンスが到来したんですね。社会党の村山富市さんが政権についた。これが最大のチャンスでした。ここを逃したら、もう決着はつかなかったでしょう。患者側に立っていた社会党とチッソ寄りだった自民党が決着しようと言うんですから、これほどのチャンスはありません。今だから言えますが、慰霊式の前はメシものどを通らない日もありました。しかし、突破できました。

―― 最大のハイライトでしたね。ただ、失礼な伺い方かも知れませんが、市長になりたてで、いわば恐いもの知らずのところもあったのでは?

吉 井:それはありましたね。しかし、自分の中では、とにかくこのままでは水俣は沈没してしまう。市長になって沈没させるわけにいかない。とにかく40年間も閉塞状態が続いて市民もあきあきしている。そのためには水俣病問題に対する取り組み事態を原点に返して、なんとかしなければいけない。たくさん偉い人がいる中で自分のような者が市長になるというのはこれは天命だ、と。 水俣病問題を解決する事と、新しい水俣を構築する事が私に与えられた天命だと考えていましたから、なんとかしたい。

ところが、当時、水俣市役所は事実上は選挙相手でもあった小松さんという助役さんを中心に回っていた。優秀だし、人望もあった。おそらく市役所の7、8割は小松シンパだったんではないか。ですから、長野県の田中さんみたいなもので、敵陣にただ一人落下傘で降りたようなもんだった(笑い)。したがって、何をやると言ってもなかなか難しかった。

環境でメシが食えるか―の声はねのけ、町づくりを決意
  

もう一つは町づくりに関してですかね。環境立市を標榜したものの、環境でメシが食えるのか、という声が強かった。まだ議員時代でしたが、92年のブラジルの地球環境サミットに行った時に世界都市フォーラムというのがありましてね、その時でしたね考えさせられたのは。水俣コーナーを作って水俣病展をやった。それはみんな見てくれた。 しかし、会議の中での空気は、日本は世界中の森林を荒らし、かつ有限な資源の石油をどんどん使って公害企業を開発途上国に輸出している、最大の環境破壊の国だというんですよ。日本びいきのブラジルの邦字新聞でさえも地球環境を破壊して儲けた金でODAなんて言っても納得できんというわけです。

そこで考えました。(水俣病の)悲惨さとか、公害の教訓とかだけを偉そうに言っても受け入れられない。環境破壊しながら、大変ですよと言っても誰も理解しない。まず自分で教訓を活かして公害を克服し、被害者を完全救済し、かつ町づくりをする。そのセットでないと誰が理解するか、ということですよ。それを水俣はやろうじゃないか、と決心しました。

とは言え、有形無形、大小様々な雑音は絶えなかった。しかし、ブレーンに恵まれた。多くの名前を出せませんが、いまや地元学で有名な吉本哲郎君を初めとする人たちが本当に一生懸命やってくれた。良く協力してくれました。つくづく感じましたね、環境都市づくりの政策は、職員のアイデアや提言を元に膨らましたもので、私の発想などはほとんどありません。 何事も一人では出来ません。市長であれば、庁内の協力者がおらんと物事大きく進みません。脱線するけど、(長野の)田中康夫さんには反対する勢力や人に対してはまず説得せんといかんよと申し上げたいですね、余計な事ですが…(笑い)。

今だから言える事は?

国も県も患者側も解決を望んだ。機が熟した。天命と思った
―― 今だから言えるという感じで伺いたいのですが、ご自身は市議に立候補以来、自民党に属しておられ、支部長もやり、とにかく自民党一辺倒で来られた。 その自民党は、とにかくチッソを守らなければならない、という基本方針。そういう延長で、市長になったら途端に解決すると言い出した。当然、患者団体とは別の様々な圧力があったと考えられますが…。

吉 井: そりゃあいろいろありましたよ(笑い)。しかし、最終的には環境庁も県も地元の市長がそういう気持なら仕方ないわいという感じになったんですね。 たとえば、これは天の配剤と言っても良いと思うが、今、国水研(国立水俣病総合研究センター)の所長で水俣におられる野村瞭さんが当時、環境庁の環境保健部長さんだったわけです。 その人が新聞などに「地元の市長が考えて(解決しようと)言ってるんだから…」というコメントを出されたりしたことも一種の追い風になりましたね。

―― 一方、心有る市民もかなり疲弊していた。自民党もなんとかする潮時だと思っていた。誰かそれを具現化してくれる救世主が現れないかという待望の思いも醸成されていたのでは?…

吉 井: 確かに、市民も疲弊していたから、このままじゃあダメだ。なんとか片付かないかと強く思っとったし、患者側も裁判所も和解勧告を出しているし、生きているうちに救済をという気持が強まっていた。 そういう解決への潜在意識と言って良いと思うが、充満しておったことは事実ですね。だから成功したんですね。

―― そういう意味では、ラッキーだったなと、思われますか?

吉 井: そうですね。どれだけ能力があっても、物事、機が熟さなければ成就しませんわね。やはり、タイミングというかチャンスというか、まして環境、周囲の雰囲気が熟成するというか、熟度が高まってくる、そのことが大事ですね。 それをどう捉えるかが能力と言えば能力ですが…。どんなに腕の良い船頭でも逆流に棹差したのではダメですが、流れが淀んだところなら棹の捌き方で舟は進むわけですね。そいうところではないでしょうか。 良く言われたんですが、もう一期早く(市長に)なってたらよかったのに。それは違う。そうしたら沈没しとった(笑い)。そう簡単なものではなかった。その4年の間に世の中が変わっていたということで、その時に市長を拝命したのは天命としか言いようがありません。

極秘会談の裏側は?

患者連合会長−環境庁長官、最初はいがみ合い、最後に握手………
―― 詰めの段階でのハイライトは1995年の9月15日ですか、当時の大島環境庁長官と患者連合の佐々木会長に博多で極秘に会見してもらった。 市長の立場としてはやや越権ではないかという批判もあったようですが、あのシーンをもう一度ではありませんが、振り返っていただくと…。
大詰めの段階で大島長官(左から2人目)は吉井さん(その右)の要請で患者代表と誠実な会談を行った   【1995年9月】

吉 井: その2ヵ月前(95年7月16日)に村山首相が個人としてという前置きはあったものの、首相として初めて、水俣病問題は国にも責任があると表明され、 それを契機に環境庁が最終案をまとめて、提示したという伏線があったわけですが、それをまとめるにはもっとも強硬意見だった患者連合の佐々木会長に納得してもらう事が必須だった。 それで、大島長官と佐々木さんを引き合わせ、初めはすごい議論というか喧嘩をしましたが、最終的には合意し、二人は握手した。しかし、その時点でそのことが世間に流れると大問題になる。 それで、佐々木さんにはとにかくこれまで通り頑なな、強硬な態度を維持してほしいことと、環境庁長官と会った事実を口外してはならないとお願いしましてね(笑い)。事を成就するための方便でした。

「政治解決」へ忘れ得ぬ人は?

川本輝夫氏・後藤弁護士・大島環境庁長官………
―― 各論ですが、市長としての公式記録を拝見すると、様々な人とお会いになっている中で、川本輝夫さんとの会談が目立つのですが…。 

吉 井: 特段、川本さんとだけ会ったわけではありませんが、ご存知のように彼は原告団ではないものの患者側のボスであり、有力・有能なリーダーでした。 会派の中では必ずしも根を生やしてはいませんでしたが、とにかく何かあれば世間は彼の意見を求める存在でした。ただ、自身は裁判に頼らない、自主交渉で解決するという路線でしたので、 患者グループとは路線を別に取っていました。それだけに、国とか県は患者団体やグループは相手にしたが、川本さんはのけ者扱いしとった。私はそれはまずいと考え、必要な情報はどんどん流し、彼の意見を聴した。 ですから、面談以外にもちょくちょく電話でも話しましたし、かれからもよく電話が入りました。彼のグループを説得する事が事態を収斂していくポイントだったわけです。
議長就任早々、議員になった川本さんが延々3時間、47項目にわたって質問。議長席で緊張している吉井さんの表情が当時の新聞で報道された 
【1983年4月17日、水俣市議会議場で=西日本新聞から】

彼も立派でしたよ。最終的には金じゃない、名誉回復だ。人権の回復だ、とおっしゃって、とにかく誠心誠意、謝罪しろと。 それから、気脈を通じたということで言えば、川本さんの知恵袋だった後藤弁護士とも良く連絡を取りましたよ。 彼は、1株株主運動で有名ですが、水俣に大学をということで私財を投じてそれ用の土地を買ったり、川本さんの刑事事件の弁護をしたり、本当に親身になって取り組んでくれましたね。

―― それにしても、環境庁長官には市長8年の任期中に何人会いましたかね?

吉 井: 解決の1年半の間に5人替わりました。そのつど、状況を初めから説明しました(笑い)。

―― その中で印象に残る長官というと…。

吉 井: やはり大島理森長官ですね。他にもいろいろいらっしゃいましたし、お世話になりましたが、本腰を入れてやってくれたのは大島さんでした。私は、あの時期に切れ者の大島さんが長官になられたのもチャンスの一つだと思っていますし、感謝しています。

―― それ以外に、吉井さんにとって記憶に残る政治家というとどうですか?

吉 井: う〜ん、いろいろいらっしゃいますが、加藤紘一さん(当時、自民党幹事長)もそうですね。熊本県選出の故渡瀬憲明(同、自民党)、田中昭一(同、社会党)両議員と天草の園田博之議員(同、官房副長官)の名も上げなければいけませんし、今、千葉県知事の堂本暁子さんにもすごく協力してくださいましたね。

「もやい直し」とは?

患者さんの着想だったが、意味も語感も良く採用した
―― 「もやい直し」という言葉も話題を呼びました。 思い出しましたが、かつて、緒方直人さんに会った時に、公式には市長が使ったが、あの言葉を最初考えていたのは我々だったんだと言ってましたが…。

吉 井: その通りです。実は、それでひと悶着あったんです。とにかく、すべて反対な時ですから、彼ら(患者側)が使った言葉を市長たるもの軽々しく使うなという意見も出た。 でもね、良い事は良いんですよ。本来、「もやい直し」というのは「船と船を繋ぎ合せる事」という意味で、そこから「ばらばらになった心のきずなを繋ぎ合わせよう」という意味づけにし、式辞の時に使いました。 決して水俣の方言ではありません。仕舞には環境庁も気に入ってしまい、「もやいセンター」のネーミングにしないと金出さないと言い出したくらいでした…(笑い)。ただ、今となってはもう定着したのではないでしょうか。

スムーズでなかったごみの分別?

マスコミのお陰? “善の循環”につながる
―― 市長時代の業績として、ごみの分別、しかも19(当初)もの分別をするということで、日本中に発信しましたが、実はそう簡単と言うか、スムーズではなかったそうですね?

水俣市のごみの分別は19分別で始まり、23になり、こんどは究極の?24になる
吉 井: 私が市長就任前の93年から19分別が始まりました。そりゃあ大変でしたよ。だってそうでしょ。いままで何もかも一緒くたに捨てていたものを19に分けて捨てろというんですから。 しかし、これだけはマスコミのお陰と思っているのですが(笑い)、テレビ、新聞、その他もろもろのメディアがやってきて、市民に面倒くさくないですか?と聞く。そうなると、自分たちが話題にされる、テレビに出る、新聞に書かれる。 日本一だと誉められる。そうなると、人間って面白いもので気分良くなるものなんですね。全国から視察が来る。自分たちがやってることが確認できるわけです。話題になる。注目される。評価を受ける。そうすると、誇りと自信が生まれます。 とても良い回転になったわけです。私はこれを“善の循環”と言ったのですが、このことは、市長現役時代は現実問題しか話せませんが、リタイアしますしたから、多少尾ひれをつけて、話を面白くして、機会あるごとにお話しようかと思っています。 なにせ、19から始まり、23になり、間もなく24分別になるわけですから…。

昨秋の「水銀国際会議」は何をもたらしたか?

市民に自信と明るさを与えてくれた
―― 記憶に残るものとして、昨年10月の「水銀国際会議」も上げられますね。
水俣市史上最大規模の国際会議となった「水銀国際会議」は、世界39ヵ国から400人以上が集まり、厳しい議論が行われた
【2001年10月15日、開会式で。壇上右端が吉井さん】

吉 井: 会議そのものの成否もありましたが、それ以上に嬉しかったのは市民が自信を持ったということでした。とにかく世界から400人もの人が水俣に来るというのは前代未聞の事です。 すぐ出てくるのが言葉の問題でした。2年前から、名乗り出てくれたボランティアの人たちが勉強してくれ、それがお客さんたちに通じたということ、世界の大学者たちと1週間行動を共に出来たということなどで、自信とともに明るくなった。これが良かったですね。

それと、論議の中でもいろいろありましたが、話題になった微量汚染の問題、日本が遅れているわけですが、あれを機会に進むと思いますよ。期待してます。

“壮大なフィクション”は終わったのか?

だが水俣病問題の真の解決はこれからが勝負だ
―― 著書『離礁』で一連の水俣病事件を“壮大なノンフィクション”と表現されています。 改めて伺います。吉井さんにとって、市長をお辞めになった事で、ノンフィクションは終わったのでしょうか?

吉 井: 市長としてのノンフィクションは終わったと言えましょう。しかし、地元紙に今、連載中ですが(注=『西日本新聞』に前後63回にわたり「聞き書きシリーズ 奈落の舞台回し」として連載)、申し上げたい事は、いわゆる政治決着はした。 しかし、水俣病全体の問題は解決していない。むしろこれからだ。死んだ人たちの怨念をどうするのか? 健康を害した人たちはどうするのか? みんなが楽しい生活をしている、その人だってそういう生活をする権利がある。なのに棒に振ってしまったわけです。 その償いをどうするのか? 金の問題ではないんです。そのことを国も県も市も一生懸命考えなければいかん。それは終わっていないんです。本人は苦労したが、それだけ、その子や孫など次の世代が良い生活が出来る基礎になったか? 

そういうことで良い社会が生まれ、二度とこういう公害が世界に広がらないように発信が出来て、水俣が他の地域よりも公害で苦しまなくなったということがあって、初めて怨念をなくしていく。 そこが水俣の将来の町づくりの原点だし、そういう良い町をつくった時、初めて水俣の公害問題は終わったと言えるのではないか。 だから、水俣病の真の解決、心の解決はこれからだといわざるを得ないし、そのことが水俣の市民が裕福になることだし、慰霊になるし、怨念を消していくことにつながるのではないか、と考えています。

21世紀の水俣は?

水俣だから出来る循環型コミュニティの実現は可能
―― 気にしないとは言われますが、本心はそうではないと思います。ズバリ、21世紀の水俣について。

吉 井: まあ、さんざん環境で飯食えるかと言われて来ましたが、やってきた環境モデル都市つくりというのは、環境保全に固執はしない。人間の生活を豊かにした文明の否定をしない−というのが基本の考えでした。 大自然がもっている生命とか水とか炭素とかの循環を決して壊さないように大切にしていく。そして大自然というのは復元力、浄化力、回復力というすごい力を持っていますから、これを壊さないよう範囲内で負荷をかけていく。

そして、心の豊かさ、環境と共生の出来る産業とか市民の生活、そういうものを形作っていく。いうなれば環境保全と市民の生活の質の向上を一体のものとして同時に実現する社会。 ただし、循環型社会だからただ循環すればいいんじゃなく、その循環の中に農業とか林業とかすべての産業活動、教育・文化という市民生活の全てをのせて循環していく。環境循環型コミュニティを作ろう、という発想で取り組んできたわけです。 それが形としては出来てきた。水俣に来ればそいうことが全部学習できる。これは世界に一つしかないぞ、しかもそれらを1日で全部見れる町だと。

ごみの分別化で市民の生活は豊かになりません。その先で、リサイクル産業化することで初めて市に、市民にリターンがあるわけです。そういう全体が連携した社会だということですね。それを作り上げたかったわけです。 大きいことばかり考えている国とは随分喧嘩しましたね。思想というか発想が違うんです。結局3年かかりました。まあ、水俣市には6つのリサイクル工場ができましたが。

―― お話を伺って感じるのは、こういう事が真の地方の時代の到来だと思いますが…。

吉 井: それには、国と理論闘争しなければだめですね。水俣病が正にそうでした。国や県と理論闘争しなかった。その結果の体たらくだったんです。したがって、水俣病のもう一つの教訓は、これからは賢い市民づくりですよ。そうしないと本当の地方の時代にはなりません。

これから何をするのか?
―― そいう布石はした。あとは頼むよ、ということだと思いますが、そこで、伺いたいのは“これからの吉井さんはどうするのか?”という事です。

吉 井: いやあ、もう、廃棄物ですから(笑い)、廃棄物というのは焼いて処分するか、埋めて処分するかですからね。 でも、まだ焼かれたくないので(笑い)、せっかくリサイクル工場を作ったんですから、私もリサイクル資源として世の中の何かにお役に立てばといいなと思っているところです。


楽しみな熊本学園大学の「水俣学」での講義
―― その一環とも言えますが、熊本学園大学が9月20日から正規の授業として 「水俣学」を開講し、ことしの計画に講師として名前を連ねていますね。

今はご長男夫妻と3人のお孫さんたちとの3世代で暮らしている
【2002年8月、自宅で】
吉 井:それ以前の問題として、水俣に大学を作ろうという動きが私が市議のころからあり、何回か構想が浮上しては消えという繰り返しをしました。実は、私もアイデアがあるのですが、いずれ機が熟すまで楽しみにしています。 ご質問の件はそれとは異なりますが、水俣病研究の第一人者の原田正純先生が長年温めてこられた構想と伺っています。私にもご下命がありましたので、行政関係では一人のようですので、「もやい直し」というキーワードをベースに行政という立場から水俣病事件への考察を試みたいと考えています。予定を拝見すると、12回目の講義になりますので、学生諸君もかなり勉強が進んでいると思います。質疑を楽しみにしています。

―― リユース(再利用)はないですか?

吉 井: それはありません(笑い)。ただ、リサイクル品というのはバージンに比べて劣化してますからね、そこは気をつけなければならないですが…。

―― 健康には自信がおありのようですが、それも奥さんへの償いの一環として十分に留意され、豊富なご経験を活かされることを祈っています。




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