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interview ----- by KOIKE Keiko

声楽家であり、教育者であるが、小池沙弥花とは親子の関係である。それだけに、娘が幼くして不登校などの状況に陥った時、 深く悩んだことはいうまでもない。
しかし、芸術家という立場がそうさせるのか、沙弥花を娘としてだけでなく、「個の人間」として、ある面では突き放して見ているふしもある。 小池沙弥花を"もっとも良く知っている立場"として語ってもらった。話しは最近のことから始まった。 (敬称略)

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那須のオルゴール美術館にて
(中学1年生の沙弥花さんと)

--- 娘・沙弥花と人間・沙弥花の狭間で ---  母・小池啓子

◇最近の出来事
つい最近もこんなことがあったんですよ。2人でドイツ語を勉強していたら、突如、声が出なくなっちゃったんです。ここしばらくなかったので、ちょっとびっくりしました。翌日、本人はそのまま学校へ行きましたが、話したいんですが声にならない。それで、私が代りにお医者さん−内科ですが−に彼女が伝えて欲しいことを伝える役割を負ったのですが、私としては伝えたつもりだったのですが、本人からすればちゃんと伝わらなかったんですね。非常に怒りましてね。挙句の果てに「よくそんないい加減で今まで生きてきたわね」と言うんですよ。喧嘩になりましたが(笑い)。 その後、お医者さんが「彼女怒っているみたいですね」っておっしゃるんです。もちろん、彼女がそういう態度を見せたけではないはずですが、そのお医者さんはそういうことが分かるらしいんです。「診察していて、怒りがありました」と言うんです。その日も分かったんですって。今回の失語症は結局2日間で治ったのですが、本人によると、「このところ、しばらく真面目に学校へ行ってたからストレスが溜まった」とのことでした。まあ、こんな感じの子です(笑い)。

◇幼稚園時代
もっと小さい時ですか? 幼稚園から小学1年の頃は、自分にはばら色の人生が待っていて、苦労することは絶対にないと思っていたようです。絵も描かないのに、小2の頃は「私は(将来)絵描きになる」とか思っていたと後で聞きました。ただ、先生をなめていましたし、わがままな顔もしていました。

◇予感
第三者的な表現に聞えるかもしませんが、育てていて予感めいたことを感じたことがあります。小学校へ入る前の頃でした。この子は、算数で、数の数え方でつまづくだろうと。そしたら、本当にそうなってしまったんです。 この子は、私とは違う人間ではないか−という感じが私の中にありました。それぞれの"個"とでも言いましょうか。だかと言って、日常生活がどうとか、親子関係がどうとかいうわけではありません。

小学4年の時でしたかね、こんなこともありました。一緒に着るものを買いに行った時でした。服を選んでいて、これは似合わないとか、これはダメとかあまりにはっきり断定するので店員さんがびっくりしていました。いい加減な反面、他人にものを伝えることではちんとしていなければいやなんですね。先ほどのお医者さんの件にもつながるのですが。

◇不登校
沙弥花が不登校などになったのは、幼児期に環境の変化が根本にあったのではないかと、よく言われますが、本人は帰ってきた当時は感じなかったと後で話してくれました。どこで生まれたということよりも本人の性格ではないでしょうか。とくに、沖縄へ来た時に、彼女は自分の思ったことをはっきり言うし、他人との協調性もなくて、多分、友達から見たら、いい遊び相手でないというか、文化が違うというか、そういう感じを持たれたと思うですね。彼女が自分を確立していれば問題にならなかったでしょうが、なにせ年令が年令ですからね。みんなと適当に合わせるということができなかったのでしょうね。

◇休学
母親として、もっとも心配したのは、やはり不登校に陥ってしまった時ですね。どの親御さんもそうでしょうが、この問題は終わりがないんです。いつ終ると分かっていればこんな楽なことはありません。とにかく、この問題は子供の年代の早い時期に起った方が解決しやすいと聞いたことがありましたので、まだ小学校から中学校の時期で良かったと思いました。私もカウンセリングへ通いました。一人ではとても持ち切れないですし、はたして自分の彼女への考え方、言い方が正しいのかどうかを第三者にも判断してもらいたいという気持でした。アドバイスも受けました。 その結果、父親とももちろん相談して、「休学」を決めて、気分転換を含めて1ヵ月ほどドイツへ行きましょうということにしました。確か2月から3月にかけてでした。「休学」は父親も考えていたのでしょうが、口に出したのは私でした。実はその前から「(学校で)やっていけないんだったら休学したら?」と言っていたのですが、もう一人同じような子がいて、「私が休学したらその子がひとりぼっになってしまう」と言い張っていました。 そのうち、立てない、歩けないということになり、9月に休学届を出して、それからしばらくして、ドイツへ旅しました。それで、帰ってきて4月下旬から学校へ行き始めて、新しいお友達にも恵まれてじょじょに復していきました。

◇規格外
絵の話しですが、学校では決して上手ではありませんでした。小さい頃から塗るべきところにちゃんと色を塗らなかったりということがよくありました。それと、恐竜がすごく好きで、小学4年生くらいの時に、夏休みの宿題の絵で(恐竜を)描くのはいいんですが、普通だったら、どんなに大きな恐竜でも1枚の画用紙の枠内に収めますよね。ところが、私の恐竜はこれには入らないと言って、画用紙を張り足して、大きなサイズにして描いているんです。それを折りたたんで学校へ持っていきました。それを見た時、この子は規格にはまらない子なんだなと思いました。 それと、彼女はピラミッド型に基礎から積み上げていくタイプじないんですね。上から見て、一番上のものを掴んで、それにいきなりアプローチしていったり、またその一番上のものを理解するために、いろんな本を読んだりして、その疑問をうめていきます。ああ私とは違うんだなと思いました。

◇希望
私は、彼女が描く絵が昔から好きでした。とくに線が。できることなら、自分のやりたいことを膨らませていって、片寄らないで色々なことをやってほしいと思っています。期待というより、そういうことができたら嬉しいと思います。 私たち夫婦は声楽をしていて、自分の表現をする時には歌曲を歌うにしろ、オペラのする時にも必ず伴奏者なり、仲間が必要です。なかにはアカペラといって、歌声だけのものもありますが。 人が沢山集まばいろいろと厄介なことも多くなるわけで、それと比べると、絵を描くというのは自分一人で表現を完成させるということですから、彼女がそんな道を進んでいけたらとても幸せなことではないかと思います。

【 小池啓子さんプロフィール 】
1947年静岡県浜松市で生まれる。
1969年東京芸術大学声楽科卒業の後、ドイツ・シュトウットガルト国立音楽大学に留学、1979年に卒業。
1972年日伊声楽コンコルソ入選。
1974年バイロイトワーグナー祝祭音楽祭に招聘され、『ニーベルンゲンの指輪−4部作』、『さまよえるオランダ人』、『タンホイザー』、『ローエングリン』、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』などに出演。
1980年ドイツ・フライブルク市立歌劇場専属ソリストとして契約、『ラインの黄金』、『フィガロの結婚』、『ラ・ボエーム』など同歌劇場の主要な演目40以上のソリストを務め、『タイタニック号の沈没』など現代ドイツオペラのソリストとしても高い評価を受ける。
その他ドイツ国内、イタリア、フランス、スイスなどヨーロッパ各地にも客演し、成功を収める。
1986年日本に帰国後は東京を中心に『ヨハネ受難曲』、『レクイエム』、『ミサ曲』、『クリスマス・オラトリオ』、『メサイア』など宗教曲、ベートーヴェンの『交響曲第9番』のソリストとして活躍。各地でのリサイタルやサントリーホールでのコンサート『ムソルグスキー歌曲 場面上演の夕べ』などで卓越した歌唱力と演技、意欲的な企画として絶賛された。
東急文化村オープニングオペラ公演『ホフマン物語』、ニューイヤーオペラコンサートに出演、埼玉県芸術劇場オープニング公演『日本の心象風景』では企画コンサートとして賞賛された。
1991年沖縄県立芸術大学新設により音楽学部指導者として招聘される。また、沖縄では、沖縄創作オペラ協会『モーイのとんち』、沖縄日伊オペラ『オルフェオとエウリディーチェ』、『麻摩和利』、沖縄テレビ放送主催のベートーヴェンの『交響曲第9番・合唱付』、『メサイア』、や歳末助け合いチャリティコンサート等ソリストとしての演奏活動を続けている。
1991年より沖縄県立芸術大学講師(1994−98年まで琉球大学教育学部講師も兼務)を務め、現在に至る。

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